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広島の声

宮永龍馬さん 直接被爆・距離3.8km(江波)
被爆時15歳 / 岩手県盛岡市13317

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  1 8月6日の午後から8月15日まで、焼けくずれる市街地に入り連日救助活動に従事 した。水筒2つとカンパンの入ったはとろん紙の袋を両肩から下げて、街中の道路という 道路、橋上を見わたす限りの路上と川ふちの土手に血だらけに皮が赤黒く焼けただれ、体 半分がはがれ、どろどろに肉がとけて、傷だらけの体の何万人もの人々が、あついよー助 けて!いたいよ!水をくれ!と泣き叫んで七転八倒の苦しみにもだえ、叫び続け、立ち上 げることもできず、はいつくばんで、二度と見られない形相のむごたらしさ、悲惨さの光 景、苦しむ無残な叫び声と共に頭に浮かんでくる。

 その惨たる光影の中で立ちすくんでし まい、路上に何千と横たわっている人々で足の踏み場もなく、つまずく始末。ただぼーぜ んと立ちすくんで、あ然として一歩もふみだせなかった。これはひどい!無惨だ。じーんと してしまい、どうしようもなかった。どのように書いても書き尽くせない。そして決して 忘れることはない。

 3 原爆の被爆者たちは皆、国土で戦争の苦しさや困窮に耐え忍びながら、普通の生活を 営んでいた人々(女性、子ども、老人)であって、戦闘におもむいている軍隊の軍人たち ではない人々である。
 いかに戦争中であるとはいえ、原子爆弾という最も恐ろしい目にあう、悲惨で残忍な結 果を生む武器を使わせ、世にも残酷な目に出会わせたことは、戦争をあくまで終わらせよう としない国(日本)の犠牲以外の何ものでもなく、ただ、むだ死であった悲劇そのもので あり、その実相をできる限り深く知らしめて、幸福とかしあわせ、そして平和ということ をしっかり認識し、学び尽して(尽させて)望みや希望をいだける将来を築いてほしい。
(2005年)

 被爆地広島市江波町、三菱広島造船所技術部設計課(各部門あり入っている2階建の木造であ るが大変頑丈な建物の2階にて被爆。この建物は爆心地から3.8辧法Bちソ蠱呂惑心地から4Km〜4.5Kmとなっている。その日の朝から被爆瞬時の事から、設計課の建物や造船所内の 午前中の状況を語るだけで60分はかかります。その日から6日間の体験談を語れば3時 間を要します。この20年間、原爆パネル展や追悼式典等にて体験談を語る会、 聞く会にて語り続けていますが、いつも語り尽せることはありません。
 残念です。

 <書きいそぎます>
 原爆ってどんなんでしたか、と問われると、すぐに決っして忘れることのできない様々な 光景が口から出てきますが…市電江波町停留所から広島駅まで見渡せる幅広いやけに光る レールと敷き詰められた石、ぐにゃぐにゃに溶けたアスファルトの道路一面に行列状態横 たわった怪我人、焼けただれた人の群、死体、牛や馬、犬の死骸 黒こげた人体…と何万 という死骸で埋めつくされている残酷残虐極まりない状況を決して忘れることはできない。 そしてあのきれいな川々の水面に浮いる、赤黒く焼けただれた死体や青白くふくれた死骸 が満潮によどむ流れの水面いっぱいに浮んでいる光景は語るに語られない残忍さであった。

 3、4日めに入市した時、市街中が灰になりかけ、橋の上や土手の下側に折り重なった死 体の小山から異様な臭気でむせかえり嗚咽状態になり吐き出してしまい、歩けない始末。 それらの死体から小指ほどのうじが湧き、親指ぐらいの金蠅があたり一面飛び散るといっ た具合であった。こうした悲惨な状況は話しても話し切れない程で、小生の体験を語れば かいつまんでも120分はかかる程です。でも、6年前2004年に日本被団協からの派 遣でアメリカ・ワシントンから北部地域に被爆体験と実相の真事実を語る会に招かれた際、 2週間14ヶ所の会場で120分の語りかけを熱心に聴き取るというすばらしい集会に恵 まれました。

 どの会場も熱心に語り合い真実を理解しあって、戦争をなくし平和な世界を築くために努 力して行こうと誓い合いました。
 まだ放射能の影響のこと、被害の事、多くを知った実相の事(知ったことの事実)等一杯 あるのですが、とても今書き切れません。お知りになりたい全ての事(小生の理解してい る事であれば)全てお話しします。機会を与えてくださることを願っています。
(2010年追記)