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広島の声

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扇ひろ子さん 直接被爆・距離2.2km(段原中町)
被爆時0歳 / 東京都世田谷区40003

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  ディナーショーのサブタイトルに「故郷・ヒロシマを唄う」とつけました。
 実は私、昭和20年の2月14日、広島で生まれました。終戦の年です。終戦のきっかけとなった原爆が広島に落とされたとき、生後5ヶ月ちょっとでした。爆心地から2.2キロのところにある段原中町というところで被爆しました。
 もちろん、生後5ヶ月ですから何も憶えていません。中学2年のとき、はじめて母から自分が被爆者であることを聞かされるまで、知りませんでした。

 母の話では、その日はいいお天気で、窓ガラスをはずして、白いシーツをつけたままお布団を干し、洗濯にとりかかったそうです。そこへ、隣のおばさんがやってきて、
 「竹やりの訓練、代わってもらえないかね?」と声をかけられました。
 竹やりの訓練といっても、おわかりにならない方もいると思います。終戦の前の年から、竹の先を刃物のようにとがらせ、それを本物のヤリの代わりにしてアメリカ兵が上陸してきたら女性も戦え!ということで、その訓練がありました。

 母は洗濯の手をやすめ、私にお乳を飲ませながら、そのおばさんと話をしていました。おばさんが帰り際に玄関の戸を開けながら
 「今何時ですか?」
と、母にたずね、母は時計を見て、
 「8時15分になるところですよ」
と、答えると、ちょうど空襲警報解除のサイレンが鳴りだし、それを聞きおえ、安心して、おばさんは玄関をしめて外に出ました。
 母が、もう一度私を寝かしつけようとしたとたん、目のくらむような白い光が走り、次の瞬間、黄色に変わって、そして真っ暗になりました。その間、何分か何秒だったのか、まったく憶えていないそうです。

 気がつくと、家の中はメチャメチャにこわれ、座敷一面に崩れ落ちた壁土が盛り上がっていました。
 母は、無意識に私をかばっておおいかぶさっていて、気がつくと私が泣かない。反応がないので、うつ伏せの体を抱き起こすと私の目、鼻、口、耳…に壁土がつまっている。さいわい、母は看護婦の経験があったので、詰まった壁土を指と舌で必死に掻き出すと、私は、いきなり激しく泣き出したそうです。
 そのとき、母が壁土を掻き出さなかったら、歌手・扇ひろ子は、この世にいませんでした。
 あとになって、この話を、母と同年輩の被爆した女性に話したら、突然、その方が私の目の前で声を上げて泣き出しました。その方も、同じような経験をしていて、赤ちゃんが泣かないので、死んだと思って置いて出たそうです。あのとき気がついて、もっと良く見てあげていたら、あの子は助かっていたかも知れない…と思われたのです。人目もはばからず、しばらく泣き続けておられました。

 母は、家がつぶれるかも知れないと恐れたのでしょう。あわてて私を抱いて、這うようにして家を出ると、玄関先で、さきほど話していたおばさんが亡くなっていました。口で言えないくらい無残な姿で、多分おばさんだろうと思いながら、声もかけられなかったそうです。
 母と私をかろうじて助けてくれたのは、偶然、爆心地に向けて干してあった白いシーツをかけたままのお布団だったと思うと言っていました。
 母は、戦後、落ちついてから和歌をはじめました。母の歌集「花扇」に、こんな作品があります。

 今何時とききし隣の人の声
      被爆にうせぬああ八時十五分
 もうひとつ
  忘れむと思へど永久に忘れ得ぬ
     原爆の日よまた鐘がなる

 あてもなく外に出てみると、そこは地獄絵そのままだったと言います。あちらこちらに火柱が立ち、うなりたてる火炎、黒焦げの電車、どこの家の前にもあった防火用水の入った水槽のまわりには、水を求めてやってきた人がおおぜい亡くなっていました。皮膚がただれ、はがれ、赤むけになって腫れ上がった人たちがヨロヨロとあてもなく歩いていて、川には筏のように死体が並んで流れてゆく。
 焼け跡をあてもなくさまよっていると、小さな子供たちが何人も、母のネンネコを引っ張ってすがりついてくる。でも、母は赤ん坊の私を守ることで精一杯で、その子供たちを振り払って逃げたそうです。そのことを、八十八歳で亡くなるまで後悔し続け、自分を責めていました。

 母は、そうしたことを私に話したり、ひとり思い出したりするたびに身をふるわせていました。亡くなった友人、知人、子供、赤ちゃん…その人たちを思い出すと、胸が苦しくなると言っていました。
 原因不明のまま、病弱になり、食欲がなくなり、髪が抜け落ち、体に青い斑点ができて耳、口、鼻から血を流して亡くなった知人もいるそうです。かと思うと注射針で出来た小さな穴から皮膚が腐りはじめる人…。被爆者は体調を崩すと、回復力や再生力が弱くなって、大事に至ることも多かったと言います。
 母の話は、断片的にしか出来ません。そんな話をしてくれたのは亡くなるちょっと前からで、それも少しずつでした。そして、この話は滅多なことでは口外しないようにとも言いました。母にすれば、悲しく恐ろし過ぎる話で、他人に話すことは亡くなった方たちへの冒涜だとも思っていたようです。
 母は、私が歌手を目指して上京して以来、何度、声をかけても東京で私と一緒に住もうとはしませんでした。理由はただひとつ、ひとり娘の自立を妨げるから。淋しがりやのくせに他人に頼りたがらない気丈な母でした。

 母が、被爆者であること、父が仕事先で被爆して亡くなったことを当初、私に伏せておこうとしたのは何故だかわかりません。広島での生活がおぼつかず、被爆のショックでお乳が出なくなったこともあってか、私は、母の戸籍に入ることなく、被爆したあとすぐに松山の母方の祖母の子供として入籍、9歳まで、そこで育てられました。小学校4年生のときに、大阪で働いていた母に引き取られましたが、その9年の間に、母に会えたのは1度きり。そのときは、大阪にいる"きれいなおばさん"としか呼んでいませんでした。一緒に住めるようになっても、しばらくはお母さんと呼べず、おばさんと呼んでいたようです。
 毎日、踊り、歌、お芝居、そろばんといろいろな習い事をさせられ、勉強もしました。今思うと、母は、母なりに離れていた時間の空白を埋め、私を出来る限り健康で丈夫な子供に育てたかったのでしょう。

 そして中学2年のとき、初めて被爆したことを告げられました。でも当時は、その意味をほとんど理解していませんでした。このころ、戸籍上、母の養女になったようです。
 そのころ、毎日のように新聞に被爆者の子供死すという記事が出ていました。私と同年代の子供たちも…。それ以外に、直接被爆していなくても、広島に住む親類の安否を求めてやってきて黒い灰をあびて亡くなった方も、たくさんいたことなどが紙上をにぎわせていました。
 私の場合、生後5ヶ月での体外被曝。母は、自分自身の健康も含め、私の将来への不安にかられ、短いかもしれない私の人生を、めいっぱい充実させようと、いろんな習いごとをさせてくれていたのだろうかと、今になって思います。いつ、自分たちも…という恐怖感はたとえようのないものだったと思います。

 私自身、具体的に大きなショックを受けたのは、保健所で体調を調べてもらったとき、係りの人に言われたことです。
1.子供を生むと障害児の生まれる可能性が高いこと
2.白血病になる可能性
3.がんにかかる可能性も高いと言われ、子供ながらに、私は一生、結婚したり子供を作ったりは出来ないのだろうと思いました。以来、今にいたっても、そのときのようすと、この3点は頭から離れることがありません。今でも、ちょっと体調がよくないと不安を感じます。

 被爆者歌手というレッテルで同情を集めるのがイヤだったので、何10年も原爆手帳を持っていることを隠していました。年を経るにつれ、被爆者が減ってゆくいま、この手帳の重さを、ひしひしと感じるようになりました。現在23万人近くの人が被爆者手帳を持っています。この1年でそのうちの8000人余りが亡くなりました。被爆者の平均年齢が今年で76歳になったそうです。いま私は生き残っている被爆者であることをキチンと受け止め、被爆者歌手であることの意味を考えています。

 そして、私が母に聞かされた話を、あの悲惨な出来事が忘れ去られようとしているいま、母が死ぬまで持っていた原爆への恐怖、そして、こんなことは、世界中のどこの国にも二度とあってはならないという思いを、ひとりでも多くの人に伝えること…それが私に与えたれた使命だと思うようになりました。
 サブタイトルに「故郷・ヒロシマを唄う」とつけたのは、そんな私自身の心境の変化をお伝えしたかったからです。

 歌手デビューしたのは、昭和39年8月5日です。その翌日が奇しくもヒロシマが被爆して19年目の記念日でした。当日、ヒロシマで例年通り平和記念式典が行われ、石本美由起作詞、遠藤実作曲になる「原爆の子の像」が披露されました。偶然、デビューの翌日でもあり、広島出身の新人歌手として、この作品を歌わせていただきました。翌年7月、レコードは出ましたが、被爆者であることを公にしなかったためか、ほとんど歌う機会がありませんでした。
 私にとって大切な、この作品と、もう一曲、昭和49年8月に行われた広島平和音楽祭で先輩の美空ひばりさんが歌われた松山善三作詞、佐藤勝作曲になる「一本の鉛筆」を、つたない話しのしめくくりに歌わせていただきたいと思います。
(2010年)