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広島の声

女性 直接被爆(仁保)
被爆時18歳 / 岡山県岡山市北区11791

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  私は挺身隊として広島鉄道局から広島鉄道教習所に事務と寮母として勤ム、当日月曜日は日曜 出勤でしたので休日でしたが、寄宿舎に忘れ物を取りに行きました。空襲警報解除でほっと している時でした。

 私は宿舎の廊下半分位でフラッシュのような光が走りました。丁度 向いの宿舎の2階は電気科の2回生の寮でしたので、(いたずら)かと思い窓から頭を出 して誰かネェと大声で呼んだが返事は無く、西の方を見ると屋根の方向から真黒の煙がも くもく上がるのが見え、週番が5、6人居りましたので、落た落た、早くおいでと云って 中央の階段の下に伏せました。5分位して見ると天井、物置の戸も風圧でめくれていました。

 朝食中の生徒は全員即刻に広島駅方面に走って行きました。(食事は生大豆貰い)両手一 ぱい、でも後が大変でした。
 翌日から血便や熱の出る人が次々に出て、薬は正露丸2ビンではすぐなくなり終りには梅酢も使い困りました。
 食事は大豆7米3の少しの食事でした。生徒は700人です。これが原爆病だと云う事は1ヶ月以上過ぎた頃でした。教官と相談し、外泊出来る人は許可を出して頂きました。
 土木2回生の同窓会に呼んで頂き、外泊さして貰ったから今日まで生きられたんだと喜んで話をしていました。空襲も無い様だから、3日目に職員の外出許可が出ました。

 話は聞いていたのに一発の原子爆弾の恐怖感です。中国新聞、福屋だけ、後は2部隊第一病院、第2病院、護国神社も10部隊も大本営跡も全焼、師団司令部の防空壕の中一寸入って見たので、人の居る様子は無く、通信の方だったので兄は八時から広島城の石垣の防空壕で夜勤だったので、休みに入った時閃光と爆風で上衣も私物も堀に飛んでしまったとか。後日16日元気だとの伝言がありました。 8日は陸軍病院に衛生兵として義兄勤ムして居ましたので、戸坂江波町分院に行き19日帰郷し たとのやれやれでした。

 太田川一面真黒になる様な死体。兵隊さんのお不動様の様にふくれた恐しいつぶれた顔。僕も科学の力には勝つ事が出来んから、この人達も皆死んで行くのだと言われても、私にはこんなに元気なのにと思 いました。29日に兵隊さんが熱が降らないので入院するので来て下さいと申され、広島城まで行きました。比治山陸軍病院の5日間私の生々しい忘れる事の出来ない悲惨な記憶です。

 昨日は笑ったりして話をしていた人が、今日は静かな、如何されたと思ったら熱が出て、鼻血 が出て、止まらない言って居られたのが、出血で3時間で亡くなられました。3時間です。そんな人 3人又入隊したばかり、18か17才の若い兵隊さんが血便が出て止まらない。この人もう3 時間位で……これが白血病と知りました。3時間の命、恐い体験でした。

 兄も白血球少なくなり、 5日目、朝、静かに24才の一生終わりました。他の兵隊も次々入院され、本当に物凄い恐し い爆弾。3時間の出血で次々死亡され、若い私のショックは大きかったです。2度と思い出し たくない事です。今日まで生きて居るのが平和な世の尊さに感謝致します。次の世代に申し送 り核兵器の廃絶を声を大にして、非核宣言自治体を広げる運動しましょう。

 核の恐しさを語り継ぎ、核廃絶を訴えることが私達の使命だと想います。謹んで故被爆者 のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(2005年)

 核兵器廃絶、非核宣言自治体を運動でひろげましょう。二度と戦争の無い平和な国で有ります様に願っています。
(2010年追記)