english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

この声の英語ページへ

濱口進さん 入市被爆
被爆時18歳 / 広島県呉市5605

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。   1.川面に浮かぶ死体は殆んど全裸で水面が見えない程だった。潮の干潮で死体群は上流に下 流に移動した。橋脚に張られた網で干潮時、其処に死体が折重なって溜った。硬直した 死体がそれぞれ水の流れで動いて居た。基町の西練兵場(今、広島県庁がある附近) は召集兵で何万人もの人々が小鰯を干した如く散乱して倒れ、上を向いた死体の口や 鼻からメタンガスがポロンポロンの音を出していた。内臓が破れ大腸が露出しガスに より肥大化し風船の如くなったのを多く見た。

 2.無惨、悲惨、筆舌に尽くしがたい光景は地獄もかくやと思われた。兵隊でもない善良な 老若男女が無惨に殺された事に名状すべからざる怒りをおぼえる。
 それは現在も続いていて居る。哀悼とか、お悔やみとか言葉でない、深い悲しみは終 生消えません。

 3.ドイツが研究しているからとアインシュタイン博士がルーズベルト大統領に早く原爆 を作るよう進言し、マンハッタン計画が発足したと聞く。日本も仁科博士等を主として 研究所、大学で研究を重ねたと聞く。理論的に完成しても当時の工業力の差(開戦当 時日本の鉄鋼生産600万屯、アメリカ1億2000万屯)で完成は出来なかったと 思います。日本も仁科研究所や大学で原爆の研究をしていた事を後世に伝え、又今の 水爆は広島原爆の2000倍〜4000倍と云う事を一般に知らせ、今後水爆戦争があ れば地球の生物は全滅すると知るべきです。
(2005年)

 日本軍が中国各地での残虐行為も記録されるべきではないでしょうか。
(2010年追記)

    原爆の記憶
 昭和20年8月6日当時、私は海軍施設部第103部隊本部(呉吉浦海軍燃料廠内)に勤務して居た。
 隊長は田内技師であり主任技師は久保さんであった。
 吉浦峠の宿舎より徒歩で猛暑の中を出勤し、事務所内で汗をふいていると突然強烈な光を感じ、それから大音響の爆発音を聞き驚いて外に飛び出す。山の上に入道雲に桃色を塗った様な巨大な雲が次から次と吹き上げる如く大きな早さで、天に舞い上っていた。
 皆の意見はそれぞれ違い或る者は、坂の発電所の爆発だと云い、他の者は広島ガスの爆発、そして西条、八本松の火薬庫の爆発等、意見百出の感があった。
 30分位して広島より藤井技手出勤される。坂駅で爆風により窓硝子破損し頭に負傷されたとて、頭に包帯を巻いて居られた。彼の云うに、新型爆弾により広島市は全壊し全市が火の海だとの言なり。半信半疑で聞く。

 我々の主任官であった久保技師の妹さんが広島日赤病院に事務員で勤務されて居り、消息が心配なりと心痛の様子でした。小生も兄が陸軍船舶司令部(宇品大和人絹跡)に見習士官で勤務し、又叔父中常重人(陸軍准尉)も広島三篠小学校に駐屯して居たので心配でした。
 久保技師にお願いして救援活動に行く目的でトラック(戦時型4.5TON)を公用で出動させてもらう事となり、技師、運転手、濱口と3名で9時30分頃出発(吉浦)する。
 途中海岸道路をトラックで走り乍ら、広島方面を見ると、市内は猛烈な煙と炎であり、中天に立ち昇るピンク色とも違う入道雲の如きものは、シャクナゲの花の色に似て、すごく美しく感ぜられた。

 大洲橋を通過する頃より、顔に白布(ガーゼ)を張り杖をついてトボトボと歩く多くの負傷者を見る。これは顔面に火傷を負い油や赤チン等で治療を受けた人々で、顎から下にたれ下った人間の顔の皮を見て言語に絶する光影でした。
 大洲町に入る程この様な多くの負傷者を見るようになり驚きと恐怖で、皆声もなく、顔面は蒼白でした。路傍には多くの負傷者横たわり、その殆どは全身火傷でした。
 全身真黒に焼け、唯心臓のみかすかに動いている7、8才の子供の姿に名状すべからざる戦慄をおぼえた。
 大洲ガード下附近に憲兵が立って居り、車は一切市内に這入ってはいけないと云うので久保技師が公用証を出して許可を得、乗り入るも荒神町の手前で障害物のため進めなくなる。
 やむなく運転手を車に残し、久保技師と2人で防毒面を着用し徒歩で的場迄行く。煙と障害物で歩行も苦難を極め途中真黒な棒のようなものにつまづき蹴るとやわらかいので煙をすかして汗の流れ込む防毒面の中から見ると、それは大人の女の焼けて水分のなくなった焼死体であり、全身に悪寒が走り、この時の驚愕は終生忘れる事は出来ないと思います。これを境に沈着さを取戻し、それ以後は、ゴロゴロする死体を見ても驚かなくなったのは不思議でした。

  的場より広島駅が望見出来、11時頃だったと思いますが駅前郵便局が火炎に包まれていました。
 又中国新聞社、福屋が煙の中より、かすかにそびえ立つのが望見出来ました。熱風と煙でこれ以上進む事不可能なので自動車迄引き返す。
 憲兵からも救援車として依頼を受け奥海田小学校迄負傷者を運ぶ事となった。歩けない者だけ乗せるよう命令されて家族でも歩ける者は絶対に憲兵が乗せないので気毒なり。
 最初に乗せた負傷者は30前後の若い医者らしく、家の下敷になって後頭部を骨折し、脳ミソが露出して、ウツロに見開いた眼を天にむけ空虚を握むが如く、手や足の先は冷く、かすかにお経をとなえる声がきこえたのを記憶する。車の下ではその人の母親、妹さんが一緒に乗せてくれと泣きさけぶのに憲兵が絶対に乗せないのは気毒でした。一回に30人位の歩けない負傷者を乗せて奥海田迄この日3往復する。

 夜遅く帰途につく。海田で呉に帰るという女学校の生徒を乗せてあげる。観音三菱造船に学徒動員で行き被爆し歩いて海田迄帰ったと云う。放心状態で夢遊病者の如し。広島市内では爆発後、集中豪雨の如き、雨が降ったとかで女学生の白い服は点々と真黒いシミが着いていた。
 疲労困憊なのに眠れない夜をすごす。

   8月7日
 朝8時頃より救援活動のため昨日の如くトラックで出発する。途中海田にて小学校の恩師小坂大先生を見舞う。後頭部と手の火傷で不自由そうなり。明日来る事を約して広島に行く。荒神町より先は電車通も含めて全く車の通行は不可能で徒歩で行く事となりトラックは運転手だけ負傷者を運ぶ事となる。
 未だ煙や熱気のたちこめる市街は全く瓦礫の山で道路も歩行困難なり。焼死体は地上何処でもゴロゴロし、川の中は熱さと痛さで飛び込んで死んだ多くの真白にビランした死体が無数に浮び水の流れで動いているのを悲しく見た。
 八丁堀、福屋百貨店の中を見るとマネキン人形が焼けたのかと思うとそれが皆若い女性のクンセイの如くなった死体とわかり驚く。人間は体内の水分がなくなると極度に小さくなる事を知る。焼けた電車の中にも乗客がおり重なって死んで居り、又八丁堀〜紙屋町の間、馬の多く死んだのを見る。
 紙屋町電車停留所のマンホールの穴に多くの足が出て居るを見た。瀕死の多くの人がマンホールの中に頭から逃げ込み足が外に出たまゝ絶命したものと思われる。

 西練兵場では、8月6日召集兵が集合し、その家族も一緒だったので大変多くの人が集まって居たと思われるが、その殆ど全員が熱線と爆風で即死に近い死を迎えたものと思われる。
 一糸まとわぬ四散した死体は、あたかもイリコを干したようでした。近寄って見ると、プルンプルンと無数の音が聞こえるのでよく視ると死体の口や鼻からガスが吹き出して血のような液体と喧嘩して出る音でした。又風船が風にそよぐようなので近寄ると、それは爆風で内臓が露出し、大腸にガスが膨張して風船のように丸く大きくなったものでした。殆どの死体の眼球は飛び出していて正視出来ないくらいでした。
 又死臭が充満し、空腹なのに食事は喉を通りませんでした。紙屋町から鷹の橋にかけて行列のまゝ死んだ人達と弁当箱が散乱するを見る。これは建物解体のため郡部方面から来た勤労奉仕の人達だったそうです。

 宇品船舶司令部の兄の安否が気になり急いで行く途中御幸橋の上で父と出会う。革靴を片手で持ち草履ばきで歩いて居た父を、こんな悲惨な場所で見て不思議な気がした。中常のフジエさんも主人をさがす為父と一緒なり。父の云うに兄は元気で救援活動をして居るから安心しなさいとの事でした。安心して引返し中常重人叔父の所在安否をたしかめるため父、中常フジエさんに協力する。
 御幸橋から引返す時、広電の倒壊した事務所の中から、若い女性(車掌さんと思われる)を掘り出して火葬準備中をみる。
 日赤病院の中の廊下はもちろん、庭の方もムシロの上に寝かされた患者で溢れるばかりでした。
 正面向って左の端の庭では死んだ人を次から次と火葬にして居り手伝う。足を持つと火傷のために皮がはがれてすべり困却しました。市内各所で片付けや死体の火葬が始まり黒煙が立ち昇る光影を見ました。

 西練兵場入口紙屋町寄りで小学校の同級生角川重利君を見たので大声で「角川」と呼ぶと脱兎の如く逃げだしたので追って行き呼び止める。彼は呉海軍工廠を無断欠勤して此処に来たので憲兵に呼ばれたと勘違いして逃げたと云いお互いに苦笑する。少時して又小学校同級生の住本忠昭君に会う。弟俊作君(修道中学3年生)が学徒動員で広島市内に出勤中被爆して行方不明になったそうで各所を探して廻る途中小生に会ったとの事だった。一緒に協力して探し歩くも不明でした。
 久保技師の妹さんも行方不明で終日探されるも不明で気毒でした。日赤病院より基町の陸軍病院(西練兵場横木造バラックの仮病院)に出向して居て行方不明になられたとの事でした。久保技師、私と市内で身内の者を探す間乗って来たトラックは負傷者の輸送を2往復して後、私共2名を乗せての帰途もう1回奥海田小学校に患者輸送して帰った。

 睡眠不足と連日の活動で疲労甚だしきも余りにも強烈な刺戟のため仲々眠れなかった。
   8月8日 連日晴天猛暑
 今日も主任官の許可をもらい一人自転車で吉浦より広島に行く。途中海田の小坂先生宅に今日も寄り少時片付等手伝う。首の後に火傷を負い痛々しく気毒なり。広島にて父、中常フジエさんに会い一緒に叔父を探すも全く消息不明なり。
 兄は船舶司令部より派遣されて救護活動をして居り紙屋町、住友銀行ビルの隣のビルに多くの負傷者を収容して手当中会う事が出来お互に無事を歓ぶ。

 原爆投下の前日、(日曜日)広島で会い左官町の秋本さん宅に行き御馳走になったり、本通りキリンビヤホール(将校クラブ)で食事したりしたのが走馬燈の如く思い出され夢のようでした。
 左官町の秋本さん宅は爆心地に近く屋根瓦も溶解する程の火の強さのため人骨は全く発見されなかった。
 親切なよい人達ばかりだったのに残念なり。
 又南竹屋町の原さん宅もおばさん息子さん共探せど全く消息不明でした。
 焼野原の広島は日中は大変な人出で勤労奉仕で片付や死体処理をやる人、肉親を探す人等で騒々しさはお祭のようでした。死臭、全市にたちこめて衣服や皮膚にも吸収されるのか臭くて困却する。
 片付けも大分進みこの日は各所で火葬の煙天に昇るを多くみる。
 死体は腐ってくるのか肥大化して相撲取の如くなりその口や鼻から血のような液体が溢れんばかりで、体内のガスが、口、鼻から吹き出すので、昔のオモチャのポンポン船のようにポンポン、ポンと音を出しているのを、多く聞いた。

 浅野図書館はギリシャ神殿造りの建物だったが、その中に天井に達するくらい死体が積み重ねられて悲惨でした。電車通りから石畳で20m位通路があったが、その上に人間の油が、積まれた死体から流れ出て靴に附いてスリップしそうになりました。
 白神社の裏の墓地では大きな墓石が、台石との間にギボシ石が飛び込み傾斜したまゝ建って居たのを不思議に思った。
 又この墓の近くに大男の裸体で死んだ人横たわり男根の直立して馬のそれの如く肥大したのを見る。
 焼残りの瓦等でそれを隠す。
 女性の死体の下腹部は殆ど隠されてあるのに男性のそれは放置されたまゝのもの多し。
 夕方になると人通りはなくなり急に淋しくなる。
 帰る途中、橋(相生橋)の下をぼんやり見ると橋脚に張った網に多くの死体がかゝり、水の流れでそれぞれの死体が上下、左右に動いており、全裸の白くビランしたその様は終生忘れる事は出来ないと思う。
(2010年送付)