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広島の声

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日野一利さん 入市被爆(仁保町青崎)
被爆時17歳 / 山口県下関市6015

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  戦後、GHQ米国政策で、昭和29年ビキニ水爆実験による第五福竜丸事件以来(久保山 さん死去)、原水爆禁止運動が全国的活発化し、第二回原水爆禁止世界大会(長崎)に出席 して、20年8月6日に広島で被爆したことを思いだしました。以降、今日まで、核兵器 廃絶と被爆援法の制定のため、闘い続けてきました。終生、世界恒久的平和(核兵器のな い、戦争のない)のために老骨にむち打って頑張って参りたいと思っています。
(2005年)

 別冊の体験記は友の会最後のものです。
 右肺ガンを手術しました。私は向洋町、爆心地より約5キロの地点で被爆しました(2号被爆者)。体験記に詳しく書いたつもりで、8月6日、7日を中心に綴ったものです。従って一昨年、新しい原爆症認定が新しく変りましたので、肺ガンの治療中ですが、厚労省に申請中です。
 もう65年を迎え82才になり、活動もできなくなりましたが、命の余りを核兵器廃絶を念じて 地域で頑張っています。

  沈黙の体験 No2−被爆の真相−(山口県豊浦郡原爆被害者友の会 2003.7発行)より

   学園で被爆、諸所に救援に行く 五十七年前の記憶

 あの日は、月曜日の暑い暑い日だった。私は、日曜日故郷豊田中村(現在豊田町)へ帰郷し、戦時食糧難の時節柄、おふくろの愛情こもった「はったい粉」「しそ入りにぎり飯」を、リュックサック一杯に詰め込んで、下関駅二十三時二十五分発終列車に乗り広島へ向かった。
 途中、警戒警報・空襲警報が前後して、列車は約二時間遅れて七時過ぎ広島駅に到着した。
 私は、昭和十八年四月国鉄下関機関区に就職していて、機関士になるため、広島市向洋町青崎・国鉄広島教習所機関士科に入所して一ヶ月経っていた(爆心地より五キロ)。
 下関市に住んでいた時は「焼夷弾」の攻撃で市内南側が焼け野原になり、また、関門海峡には機雷投下により毎日のように、船舶が爆発沈没してゆくのを見ていた。広島へ来て一ヶ月、呉市は毎日のように、グラマン機が飛来、相当の被害があったが広島市は、本当に平穏で広島市は住みよい所と思っていた。
 広島駅到着後、呉線に乗換え教習所宿舎に着いたのは七時三十分頃、疲れた身体を全裸にし、第二回食(当時入所者約千名居たので、時差食事、食事は「戦時食、大豆七割。米三割」)を待っていた。

 その時運命の時、八時十五分が来るのである。まずピカーと閃光が光り、晴天なのに何が光ったのかと、窓側で空を見上げると白波のようなものが流れ、B29型爆撃機三機が宮島方面へ飛んでいたのを見た。その瞬間一発の爆発音、部屋の壁が落ち真暗になり、机の下に頭を突っ込み大騒動になった。直ちに防空壕に退避した。九時頃、集合ラッパで全員運動場に集合させられ、広島駅が火災になっているので救援に行くことになり、非常食(大豆を煎った物)二握り貰って出発した。
 旧国道二号線を西下し、大洲橋を渡ると広島市外が一望できる地点である。見ると広島市の街々は、あちらこちらで火災が発生していた。
 国道二号線は、両端は田圃で一本道であった。広島市方面から黒い一団が近づいてくるのが見えた。直面すると、人間ではあるが人間ではない。下半身は裸体で顔面は火傷をしていて、両手を上げた者、死んだ子供を背負う者、死んだ子供を抱いた者、引きずって歩いているもの。「助けて下さい」「水を下さい」と叫ぶ。その場で次々死んでゆく者。左側にブドウ畑があった。日陰になっていて見る見る内に死体の山になるのを見た。あの情景を口で語れと言われても無理である。

 一体広島で何が起こったのかさっぱり判らない。愕然として、恐ろしくなり、私たちは、何も出来ず田圃の畦道を国鉄線路に向かって逃げ、広島駅構内に行った。駅はすでに炎上していて手のつけようがない。ただ呆然として見ていた。大須賀町付近から東練兵場付近には兵隊さんの膨れあがった死体が転がっていた。午後になり白島町に広島鉄道局高官の官舎があり、救援に行けと指示があり、炎の中広島城の堀端を通り、官舎に向かったが、既に官舎付近は炎に包まれ手の施しようがなくひきかえした。広島城は二階から上は塀に陥落しており、近くにあった陸軍幼年学校の若き幹部候補生の死体が堀に数えきれないほど浮かんでいた。縮景園の裏を流れる猿猴川岸辺に水を求めた被爆者の死体の山。川に浮かんだ死体は、干潮になれば川下にながされ、満潮になれば川上へ戻されその光景は地獄である。

 午後三時ごろ、広島上空からの黒い粉が降り注ぎ真っ暗になって、逃げる人、死んでいった人、広島市内には私たち以外、人間の姿は見なかった。見たのは鶏二羽と火傷した犬一匹しか見なかった。
 黒い雲は西北の風にながされ横川・己斐方面に流れていった。私たちは、午後六時過ぎ広島市内の悲惨の状況を見、国鉄線路を歩き向洋の宿舎に帰った。

 翌七日、牛田町にあった分教所(女子電話交換手)生徒、十一名行方不明の知らせがあり、私たち四十九名が救援に行くことになった。
 広島市内は依然として燃え続けている。二葉山の南側側面の木々は皆赤く焼けている。
 山陽本線広島駅上り場内信号機に停車していた貨物列車が、爆風で脱線転覆していた。その復旧作業が始まろうとしていた。
 分教所に到着し、火傷した元気な生徒もいたが、十一名は倒壊した家屋の下敷きになっていると聞かされ、倒れた家材のかたづけから取りかかった。十一名全員家屋の下から発見されたが、一人が、あの時便所に入っていてその姿のまま圧死していた。牛田川(幅三M)小川で膠着した糞だらけの身体を洗ってやった。生存した生徒たちと号泣した。

 七日の午後から広島市内に続々と救援隊の軍隊が到着し、救援がはじまり、縁故者の安否を尋ねて一般の人たちの姿も見るようになった。貨物列車の復旧作業が終わり、山陽本線が開通したのは、八日の夕方だったと思う。
 私たち教習所生徒は、山陽本線開通後は、広島駅構内で列車の運行に携わり、終戦後の二十日まで続いた。

 東練兵場に(幅5M・縦100M)濠が幾つも掘られ、爆死した人々を運んでは、荼毘にされ、救援活動が活発に行われていった。
 私たちには寝耳に水の、まさに無警告奇襲爆撃であった。天を裂く熾烈な閃光と、地軸を揺るがす大音響によって、一瞬、広島市は地面に叩きつぶされてしまった。
 この原因はさっぱり判らなかった。一週間後、「新型爆弾」だとの報道で知った。
 戦後、一九五四年米国のビキニ環礁で水爆実験で被爆した第五福竜丸、久保山さんが被曝され亡くなられ、全国津々浦々で、原水爆禁止運動が盛り上がり、一九五五年第一回世界原水爆禁止大会が広島市で開催されて以来私もあの時広島で原爆を見たことに気がついた。それまでは、原爆のことはすっかり忘れていた。

 ―あれから五十七年―いまの核爆弾は、広島型原爆の約千倍と言われている。日本本島は二発で全滅になるだろう。思っただけで身がゾットする。
 今日まで機会ある度に「核兵器廃絶」「国家補償被爆者援護法」制定の運動に参加してきた。十七歳で被爆し、五十七年経過した今日老いた身を粉にしながら、後生に語り、ふたたび戦争のない世界恒久平和を望みながら終わる。
(2010年送付)