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広島の声

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暉峻衆三さん 入市被爆
被爆時21歳 / 東京都世田谷区11513

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  ・『年報 日本現代史』第15号 現代資料出版2010年刊に、私の広島原爆体験記が掲載される予定。
 ・もっとも古い手記としては、旧『東京教育大学新聞』1965年11月25日号所収の「ヒロシマ=怒りと自責の街」参照。

     ヒロシマ=怒りと自責の街

 一九四五年八月六日早朝。僕たち軍曹四人は命令により広島にむけて出発することになっていた。だが、東京の兵舎をまさにはなれようとするとき、「しばし待機せよ」との命令がくだった。新型爆弾が広島に投下されたためだ。だがこの新型爆弾なるものについてわれわれははじめのうちは「少し大型の爆弾なのだろう」くらいにのんきに考えていた。
 十日早朝、ふたたび出発命令。途中汽車は難行をかさね、十二日早朝、ようやく広島着。原爆がおちて六日目であった。同行の一人は広島県出身だった。だが、彼は汽車が広島についたとき、はじめはここが広島であることを疑った。一面の廃虚を前にして彼はしばし茫然自失の態であった。

 一面の廃虚の街、この広島にはもちろん宿るべき家はなかった。僕と同じ日に広島についたある人は、街で野宿した。その人は、放射能をあびて大分あとになって死んでいった。昼間、人々はいいしれぬ悲しみを胸にこめて、焼跡の整理にあたっていた。灼熱の太陽が照りつける真夏、魚市場にただよう異様な腐敗臭を経験した人は多いだろう。あの臭いが真夏の広島の街全体にただよっていた。夜になると、人々はまた街を去ってどこかへきえていった。夜の広島は無人の街であった。そして、あちこちにたき火がみえ、白い煙が夜の街をつつんだ。まだ死体がやかれているときいた。突然の閃光、すさまじい熱風、建物の瞬時の倒壊、建物からふきだす火、たちまち上空を蔽った暗雲、ふりそそぐ油のような雨、おびただしい人々の死と悲鳴、そしてうめき、僕が広島の人々からくりかえしくりかえしきかされたのはこの地獄の物語りであった。

 僕たち四人は、広島郊外の兵舎にいれられた。そこにも原爆被災者が多数収容されていた。われわれ新参の軍人は、この原爆被災者の真只中で起居することを命ぜられた。和風の二階建、そこには一〇〇人ちかい原爆患者とその家族が充満していた。ふすまをとっぱらった二〇畳ばかりの部屋、そこが僕たちがころがりこんだ部屋であった。そこにも三家族、十数名の被災者がいた。そのうち、五人は傷をうけて寝たままだった。あとの人は一見何でもないようにみえた。僕のすぐとなりは、両親と小学校四年の男の子、六才の女の子、四才の男の子、この五人家族であった。寝返りをうつとぶつかるほど窮屈だった。原爆について何の知識もない僕は、火傷を負った患者に、家をやけだされた家族がくっついてころがりこんできたのだろう、くらいにのんきに考えていた。

 やがて八月十五日、降伏の「玉音放送」の衝撃波はここではさして感じられなかった。やがてトラックの往来が部隊でもはげしくなった。上級幹部が軍の物資を自宅にはこび去っているときいた。ムンムンする暑気のもとで、原爆被災者は治療もうけずまったく放置されていた。窓はあけはなたれていたのに、部屋にも廊下にも、例の異様な腐敗臭が充満した。ドサクサのなかで、僕たち四人の軍曹には、何の部署も任務も与えられなかった。しかし、僕たちは自分の居室にいるに耐えなかった。つとめて屋外にでて新鮮な空気を吸おうとした。異様な腐敗臭は、まもなく食べざかりの僕ののどをつまらせた。食欲はすっかり減退した。

 原爆がおちてから二、三週間たって、悲劇があいついでおこおった。四〇度をこす突然の高熱。ものすごい下痢。「水!水!」。苦しみにあえぐこのさけびもやがては次第によわまって人々はつぎつぎと死んでいった。昨日まで一見何の傷もなく、健康そうに僕と談笑していた人も、今日は突然の病魔におそわれた。涙もかわききった家族の必死の看病もこの病魔にはむなしかった。そして今日必死に看護したその人がやがてはまたこの病魔におそわれて死んでいった。医者はもちろん看護婦さえ姿をみせなかった。僕の周囲であいついでおこる死。僕はこの死にたいして今考えるとおそろしいほど無関心になった。

 しかし、僕にもすこしの正義感がのこっていた。こんなに多くの人間の苦しみと死がまったく無責任に放置されていることに怒りを感じた。原爆病のおそろしさに皆目無知だった僕は、てっきり赤痢か何かの伝染病の流行だと思いこんだ。一刻も早く手を打たねばみんな死んでしまう。友人と相談して、軍医のところに抗議にいくことにした。僕たちは上官に反抗的な態度をとることで処罰されることさえ覚悟していた。僕たちは事情を説明し、一刻も早く処置を講じてほしいと要求した。軍医の僕たちに対する態度は予期に反しておだやかだった。「これは君たちのいうように赤痢なんかではない。どうも新型爆弾のためらしいのだ。自分たちにとってもどう手のうちようもないのだ」と力なく答えた。この答えは新型爆弾について従来僕がいだいていたイメージを瞬時にぶちこわした。おそるべき兵器だ。ゆるすべからざる爆弾だ。僕のとなりの五人家族ははじめ六歳の子がついで四歳の子が、そして母親が、つづいて父親が死んでいった。そして小学校四年の子供が孤児としてのこされた。

 おそるべき苦悶と死、腐敗臭、食欲の減退、そして無為の毎日。僕はその毎日にたえられなくなった。そしてついに九月中旬のある日の夜、僕は決意して軍隊を脱走した。そしてようやくのことで東京にかえりついた。
 だが多くの人々の苦悶とかなしみをあとにして軍隊を脱走したこと、これが今でも自責の念として僕をくるしめている。あの孤児となった少年のことも今もって僕の心にひっかかってはなれないのだ。

 広島、それは僕にとって怒りの街であるとともに自責の街でもある。こんなひどい苦しみと不幸から人類が本当に解放されるように僕自身努力すること、これ以外に僕の怒りと自責の念をいやす途はない。今日まで、広島での体験はひよわな僕が生活にとりくむさいの姿勢を規定する大きな要因となってきた。いうまでもなくおそるべき原爆の投下を命じたのはアメリカの為政者である。今日までのところ、この面で手をけがしたのは世界で彼らだけである。そしておそるべき悲劇を体験したのは日本民族である。これも、世界でまだ彼らだけなのだ。だから、今日のアメリカと日本の為政者は、原爆ひいては平和の問題についてとくに重い罪と責任を負っているといわなければならない。僕は、彼らが過去の歴史からどれほど教訓をひきだし、それにこたえてどう責任を果しているのかを、とくにきびしく注視せざるをえないのだ。今日でも、核兵器の全面禁止に白い眼をむけているものはいないか。それどころか、今日でもこのおそるべき核兵器の使用を、しかもその先制的使用をちらつかせて人類を脅かそうとしているものはいないか。もしもそういうてあいがいるならば、平和をもとめる世界の人民と手をとりあって、世界の人民にとって当面のもっとも危険な敵として糾弾し、核兵器のひきがねにかけたかれらの手をしばりあげなければならない。広島を体験した僕はこう信じているのである。
(2010年送付)