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広島の声

女性 入市被爆(西白島)
被爆時10歳 10015

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  1.私は小学4年生で広島郊外、飯室のお寺に学童疎開していました。8月6日、爆発音は 記憶していませんが、向いの山の上に黒煙が広がり“こわい”と思いました。その後、午 後になってだと思いますが、飯室は可部線の終着駅でしたので、被爆者が続々運ばれ、お寺 の前を通って、私達が通っていた小学校まで死の行進が続きました。小学校は野戦病院のようになりました。着衣は焼けボロボロ、肌もドロドロ。この光景は忘れられません。赤ん坊(既に死んでいて首がぶら下がっていました)をおぶったままのお母さんがよろよろ、勿論自身もやけどして歩ける状態ではないのですが、私の前を通って行きました。[もうダメ、これを書き始めると手はふるえ、涙があふれて来ました。]

  2.私は祖父が牛田に家を持っていましたので、投下後1週間か10日位して広島へ帰る ことが出来ました。横川駅へ降り立つと一面の焼野原、死臭のただよう中、西白島の我が 家へ焼け瓦の上をひたすら歩きました。家は影も形もなく防火用水槽が瓦でうもれ、そこへ 「村上、山下みんな無事、牛田に居る」と板きれに書かれたものが立ててありました。無 事とは死んではいないと言うだけで、皆被爆し、特に兄はひどいやけどで火脹れして「死ぬ る〜、死ぬる〜」とうなっていました。その時は元気だった祖父は翌21年4月に急死しま した。今、思えば原爆症だったのだとしか考えられません。
(2005年)

  1.背中に赤ちゃんをおぶったお母さんは最も悲惨を極めた光景で、65年も経った今も、話したり書いたりしますと涙が出て止まりません。
〔(S50発刊)NHK広島編"劫火を見た。市民の手で原爆の絵を"は私の目と心そのものです〕

 2.兄は当時中学3年生で鶴見橋近くで建物疎開の作業をしていました。顔、腕、腿と大火傷で全身が脹れて苦しんでいました。薬もなく、母がじゃが芋をすりおろしてガーゼの上に広げ傷の上に当てゝいました(冷したのでしょうか。何か効用が あったのでしょうか。兄はケロイドは残りましたが元気になりました。不思議デス)

 3.私の亡き夫も中学3年生の時、家族全員、被爆しました。本人は物陰にいて熱線は浴びなかったようです。しかし2週間後ごろ、父親が亡くなり、遺体をタンカのようなものに乗せ、主人が前、兄が後になって山に運び、二人で荼毘に付した そうです。真夏の暑い日、山道を登る時、後の兄が、"振り向くな""振り向くな"と言い続けていたそうです。
(年の離れた末っ子の主人を父親は可愛がっていたようで重傷で何も言葉もかけず亡くなったようです)
15才の少年の何とも辛い哀しい状況を伝えずには居られません。
(2010年追記)