english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

増岡敏和さん 入市被爆(霞)
被爆時16歳 / 埼玉県所沢市11438

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。 元安川

時の鞭に
心を撓(たわ)ませながら
川砂を掬って掌(て)をひらくと
陽に透いて砂金となった粒子は
精霊のように腹をかえす
いっせいに蝉しぐれの天を刷(は)く中
色をなくして風景を低く沈め
そうして 亡母(はは)は
八月六日に帰らなかった娘の
逃げていく魂を追うように
いつまでも見送っていた
あの亡母の白いパントマイムを
帰郷するたびに
目の奥に描いて私は
この嘆きの上に紡がれる糸は
もうどこにもないと
この川のほとりにまた蹲(うずくま)る

天の鈴を鳴らして

あの日から 母は
くる日もくる日も七つの川を越え
散乱する死体を跨(また)いで跨いで
行方のわからぬ娘の影を起こして探し歩いた
その焦げつく空を虚しく仰ぎながら
広島に帰ると 私は
いつも元安川のほとりで
声を殺して立ちつくし
いまも十三歳のままの寝釈迦の霊(たましい)安かれと
小さな祈りを根に据えて
戦争を押しやる胸 突き出し
その精神の切っ先に
億万の花を祀(まつ)って 天の鈴を
鳴らすのだ

詩二篇に私の今日の気持ちを託します。 (2005年)

  私は広島市出身ですが、8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊し、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいました。敗戦の数日以内に広島市に帰りました。原爆被爆時に広島市にいたのは祖母、母、長妹(原爆死)、次妹(被爆したが現在も生きている)で弟たちは学童疎開していました。父はマニラで戦死しており、祖母と母は被爆したが当時から長く生き続けていました。(その後死亡)。私は軍隊から同年8月除隊、中旬に帰郷しました。そのずっと後上京するも反核の詩を書き続けています。反核のため生涯をたたかうつもりでいます。
(2010年追記)