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広島の声

女性 救護被爆
被爆時18歳 / 広島県2163

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  八月六日を忘却の彼方に収めてしまい度いと切実に希い乍ら脳裏に生きている。8月6日 をどうする事も出来ないで背負い続けて来た。「原爆への怒りと憎しみ」。私はその頃呉海 軍共済病院の看護婦でした。

 8月6日はむし暑い灼熱の夏の日でした。その朝も警報発令中午前8時15分頃、一瞬の閃 光がピカーと目の前を流れドカーンとすごい爆発音を聞きました。毎夜の様に空襲警報が あり、私達はその度に患者を運び不眠不休の連続でした。病舎の窓から西の広島方面を見る と山越の空にピンク色のきのこ雲が続々と増大して行くのが異様に眺められた。真相が分 からないまま勤めていると院内一斉にありったけのベッドを支度する様指示があり、総動員 で支度していると広島からの被爆者をトラックで次から次から数え切れない程陸軍の兵隊 さんが運んで来ました。

 衣服はボロボロ焼け破れ真黒く焼けただれた皮膚の人、皮膚が垂れ下がった人、火傷、 切傷、骨折等々男女の区別も姓名も判別出来ない人々。放心状態でうつろな目をして水を 求めていた。私は言葉で表すことの出来ないショックを受けました。病室も廊下も一杯に 収容され医料材料もいくら作ってもすぐ無くなり補充が大変でした。

 多くの人が痛みにうめき声をあげ、さながらに地獄とはこの様な有様を言うのでしょうか。 医師の指示で清拭消毒しマーキュロやチンク油を塗りリバガーゼを当てたり手術の支度等。 原爆患者は特異な臭気がひどく、貧血、下痢等もあって私達は臭気になやまされ食欲もなく、 くじけそうになる自分を自分で叱り乍ら精神力で救護治療に当たりました。

 手のほどこし様もない、もどかしさ。原爆症に対する知識も特効薬も分からないまま一応 の手当をするのみの、せつなさ。現代の様に医学の進歩した世代の人には分かってもらえ ないでしょう。苦しみの果て消え行く命を前に、この無力さ、残念さが、どんなに原爆を憎 み戦争を憎み続けて来た事でしょう。戦争をなくさない限りこの悲劇は地球上で繰返され て行く。

 命ある者すべてが一瞬にして消えて行く原爆の恐ろしさ、戦争の空しさ、犠牲になった 多くの魂に安かれと祈りつつ、冷たい清水を存分に供えてあげ度い。この体験も青春のひとこ ま、昭和ひとけたも昔の人となり、しみじみと今日までの足跡をふり返りよく生きられたもの と不思議な思いが致します。私達は戦争体験に依って耐える事を徹底的に植え付けられま した。

 目に見えない何かに守られて生かされた命の有難さを思うと共に、残り少ない人生を後に ついて来る人達の道しるべとなれるような人生を最期まで歩み度い念じています。野草の 様にたくましく生きた私の道だったと思います。
(2005年)

 8月6日は私は呉海軍共済病院の阿賀分院の検査室に勤めておりました。
(2010年追記)