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広島の声

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北本チカエさん 救護被爆
被爆時14歳 / 広島県坂町8281

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  当時私は16才で高等科第一学年でした。
 村には若い男性はほとんど兵隊に取られ残るは体調の悪い人や老人、子供で、二口目には 何をしてもお国のタメだと言って何事も我まんしていたあの頃でした。
 私達は16才の子供でとうとう学徒挺身隊として、学校を離れ当時安芸郡大屋村セーラー万年筆工場に働く事となり、男、女共馴れない工場で旋盤を使ったり機械を使い、又其の間では竹槍のけい古をしたり大変な青春時代でした。
 原爆投下の時は、車中の人でした。小ヤ浦駅に停車していました。発車の汽笛の音と原爆 の物凄い音が同時でした。

  みんな汽車の椅子の下に頭をつっ込んで大声で泣いたのをはっきり覚えています。5分ぐらい経過した時、駅長さんが来られ校長先生が来られるから待って下さいとの事、しばらくしたら私達の村は火の海だと聞き泣き乍ら歩いて学校迄帰った。それから3日目学校の命令で今度は被爆の救護活動に従事しました。今思えば身振るいする様な惨事。幼い子供達が父ちゃん、母ちゃんと叫び、体全体、やけどで火ぶ くれになり親を求める其の声が私の脳理の中に焼きついています。
 次の日も行けばもう其の子の姿はなく、次々と仏さんになって行く。男子は運動場を掘って死んだ人を 重ねて重油をかけて焼く作業でした。まだまだ書きたい事は山程有ります。よかったら別紙にでも記入したい位です。是非書かせて下さい。
(2005年)

  (1)幼い子が父・母を尋ね、助けてェー助けてェーと泣き叫ぶ。余にも叫ぶので医師の命令で代理ママになり、母ちゃんはこゝにいるヨと声掛けする。ずるずるにヤケドしている手を握り安心して息を引き取る。あの時の事は私の脳裡から消えません。
 (2)身内・家族の名前を叫び乍ら、どんなに辛い、苦しい心境だっただろう。くやしさといかりを抱いて他界して、其の人達の為にも8月6日は必ず慰霊祭には手を 合わせたいです。(毎年参加しています)
 (3)世界中二度と此の様な恐ろしい事はあってはならない。世界核兵器断絶を叫びたいです。

  現在、孫娘25才と男の子22才。
 2人の孫が4才と8才の時広島平和公園に鳩が見たいと言うので子守かたがた連れて行き、原爆資料館に入りました。女の子は怖いと言って泣いて飛び出しました。
 男の子は私の手をしっかり握り汗ばんでいました。出口に感想を書く用紙があり、僕も書きなさいと言ったら(ばあちゃん見たらダメヨ)と言うので、見ないヨと云ったら書きました。
 一枚の用紙に「いやだ いやだ 戦争はいやだ もうしないで、僕の大事な父さんを連れて行くから」。
 此の文字に心打たれ、私は原爆の話が出れば孫の事を誇り、話しています。
(2010年追記)