english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

込山文江さん 救護被爆(戸河内)
被爆時20歳 / 広島県安芸太田町11780

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  良くおぼえております事は親せきが2日間さがして下さいましたが判らず、人だのみにしていたらだめ、二人で行こうと米を背負い、ぞうりばきでいろうまで歩き、寺でとめてもらって1生懸命さがしました。

 入市の途中、竹やぶの中にむざんな方が居られ、なきさけんでいられた事です。八幡神社 に参ったらはんめいするとの事で姉と長い道のりを歩いて上りました事。生きてはいない との事がはんめいしました。下りしな泣き泣き姉と途歩したことが忘れられません。お口 に出店があり、ジュースでもと立ちよろうと思いましたが、唯今はいせんのふこくあり、 何時アメリカ兵がひこうきでとんで来てあぶない目にあふからと入れてもらえず泣き泣き みたきの新せきの兵隊さんの中で一夜を明かし、朝食いただいたかどうかわかりません。

 歩いていむろまで帰り夕方松原の家につき、皆で涙のみでした。兄のいこつも1回目は 兄の妹が持ち帰り二回目は町からとどき、2回いこつが帰り大事にしました。四十九日目 しんせきのおじさんより勝さんのゆいごん状をあずかって居るからとよんでいただき、あれ ほどの事何時かいたのかと姉と涙を流し、あくまでも家、込山家の発展をねがうとの長き ゆいごん状でした。それもしみがくったりしていて主人がワープ(ロ)で一冊の帳面にしており、涙の種ですのでそこであずかって戴けたらと思います。孫たちは余り重きをもっておりません。今もなみだで書いております。
(2005年)

 本人がこのような手記を貴社に出していることも知りませんでしたし、本人ももうわからないと思います。昔母より色々と聞いてはおりました。亡祖父の原爆死についての思いが強いのでしょう。当時の亡祖父の手紙もあると思いますが、今はどこにあるのか?当時の8月15日頃除隊が決まっていたのに、その数日前に被爆するという不運の祖父への思いもあり公開していただいてもかまいません。
(2010年長男記す)