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広島の声

仲井虎男さん 救護被爆
被爆時19歳 / 福岡県福岡市城南区10006

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  広島の上空は赤黒く染って広島の空爆が非常に危険である。小隊長の訓示では路上で 見た人達は何にもわからない意味不明の叫び声を発し、電灯で見る異様な人達、頭髪は焼 け、衣服は焼け爛れ見る影もない異常な有様であった。皆な作業には気を付けて従事せ よとの小隊の訓示があった。七日未明より広島を流れる京橋川〜元安川一帯の清掃、屍体収 容作業、連日連夜の収容作業、唯唯無我夢中で収容、作業後我が小隊は清掃作業を打ち切り、直ちに似島に移転を受け似島に向かう。

 似島での作業は(はしけ)で搬入する各部からの屍体及重傷者の受入検査。性別、推定年齢及軍人、民間人の認識票のチェック、検疫、検死の記録を行い屍体を次から次に担架で火葬に。火葬では間に合わず、掘られた壕に無造作に投入した。炎天下で悪臭と無惨な姿で言語に絶する物凄さ、沢山の屍体800米の距離に運搬し、兵員の疲労は極限に。酷暑、悪臭、睡魔との闘い。
 兵隊は別の焼却炉で焼く。三体を担架で運搬、炉の中は蒸し暑く、並べようとするが悪臭と暑さの為に、中に入ることが出来なかった。川の字に並べ終えて、私が一番最後外に出て来た時には、脂汗で悪臭と灰とほこりで、相当な量の灰を吸い込んだと思う。非常に印象に残った。

 収容所に帰り、他の火葬場は白煙が上がっているが私達の受付場所には火がついていない。私がマッチを受取り、気の知らせか三m程の所でなにげなく火をつけた瞬間、油が蒸発していたのか、つけた瞬間、爆風、風圧が物凄い衝撃を受け、あと1m前に進んでいたら完全に焼けどを受けていたと思うと精神的恐怖で恐くなった、後は焼けるまで待つ。焼けのこりは四角棒に五寸釘をうった棒で残火まで引っ張って来る。その時の灰と煙で吸い込むと再々咳が出た。夜中まで係る。

 重傷者や負傷者は構内に案内。中に入って見回ると敷物もなく地面にムシロ、亦毛布、 敷物で寝かされ負傷した個所、焼爛れ猛暑の下で腐爛し、無数の蛆、腐爛の度が深く、臭気は 四辺に広がり地獄の悪夢を見た。今も脳裏に焼き付いている。似島を後に、私自身は原因不明の発熱や下痢に悩み、手足の腫れ、足の硬直症状の繰り返し、奇病に悩みました。58年体調悪く胃切開、三分の一残し、縫合時血管に伸縮性がなく年のわりには90才の様に老化している。注意する様に云われる。
(2005年)

 広島を流れる京橋川〜元安川一帯の清掃、死体収容作業に従事す。半裸同然や焼け爛れた死体を収容する。大変困難で苦労した連日連夜の作業。幾体収容処理したが、極度の睡眠不足疲労でただ無我夢中であった。午後おそくまで作業は続き小隊は現時点で死体収容を打切り似島に移動、指揮下に入る。

 九日早朝似島の作業に入る、検死の記録を行い終った死体を次から次に担架で老若男女子供等を火葬に。掘られた壕に無造作に投入す。炎天下で悪臭で無惨な姿語に絶する。また幼児や赤子の死体、壕に投入する時には知らず知らずに南無阿弥陀仏と念仏が出た。沢山の死体を担架で運搬する兵員の疲労も極限に達し、酷暑悪臭睡魔との闘い。死体を持つ腕は自分の腕でないような気持だ。兵隊の死体は別の焼却炉で焼いた。
 死体収容場所埋葬用の壕も満杯で200体以上は埋葬した。火葬にする死体も掘った壕に古廃材を積み一つの壕に数体並べて焼く。1日に100体程度火葬にしたと記憶している。

 兵隊を火葬にした後、私達の受け持ち区分には火が入っていなかった。他の場所は火が。そこには五人程の兵隊がいた。聞いて見るが返事がなく、酷暑炎天下での作業で最後に残った壕なので小休止をしていたと思う。私しが点火するべく壕の近くに3m程度の場所で1度ためしで点火した瞬間に引火し、その爆風の物凄さ衝撃を受けた後に倒れそうになった。虫の知らせか早目に点火試して見て大事に至らず天佑と思った。

 重傷者や負傷者は担架また連れて構内に送る。構内そこが皆の病棟で中に入ると敷物はなく地面に毛布を敷き寝た人達ばかり。負傷した個は焼け爛れ酷暑炎天の為皮膚は腐爛し無数の蛆が湧、治療も出来ずただ寝て死を待つ状態。負傷者も衰弱がひどく自分の身体に無数の蛆が湧いても排除出来ず臭気は四辺に広く悪夢にも似た情景。治療も受られず放置されているこの現状この世の地獄。今でも脳裏に焼付いて離れる事はない。

 このような作業に連日連夜従事している我々兵隊も耐え難い悲しみと哭く死者の怨念の凝縮と信じ、唯々夢中で連日の救護作業にも拘らず桟橋に繋いでいる艀には次から次に各部隊から死体の搬入数知れず、埋葬火葬をその処理も終わらず状況で我が部隊は13日深夜で作業を打ち切り。
 お詫びと死者の冥福を念じつつ14日似島を出航。広島救護後我々数名は原因不明の下痢発熱に悩まされ、広島で連日の過激な作業の疲れ程度に思って、過ぎれば元気になると余り気にしなかった。ところが下痢や発熱は復員後も長く続き、良くなったと思うと突然にマラリアによく似た症状。復員後一年余り容態が続きその後は忘れた頃に発熱や下痢、手足の痺れ、足の硬直症状の繰り返し。身体がだるくなると風邪のような症状一週間続き、わからない奇病に悩あちらこちらの病院に行く状態でした。

 亦動く時は余り状態は変らず働けた。体調が悪くなり胃切開手術を受ける。年の割には随分と血管が老化していると言われ、これも被爆放射能の影響ではと思い原爆手帳の交付を受、現在に至る。社会的弱点(さら)すことを避け被爆者として疑惑の目で見られ気兼ねの生活。今でも思い出せない事が沢山ある。上官の絶対の命令、救護活動を続けたが殆ど記憶に残っていない。

 この記事は私自身が一番記憶に残った分を記しました。まだありますが、この世の地獄を見て来た。核兵器も戦争もない平和の世界実現を願って生きたい。被爆者として生きている限り背負い続ける身体的精神的苦痛、社会生活の困難、無視しない様願いたい。
(2010年追記)