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広島の声

須藤仙午さん 健診
被爆時20歳 / 新潟県十日町市6551

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  岡山県津山(日本原にあった哨舎)に駐屯していたが鉄工経験者25名が軍需工場に出向となった。8月5日未明工場(山陽本線向洋駅近く。爆心地より約500mくらいか)、工場名不詳東洋工業前身が同日休養。運命の6日工場の休電日休日となった為、午前組、午後組と広島市内見学となった。朝食後午前組が支度中警戒警報発令、まもなく解除となった。

 8時15分真夏の晴天の朝の太陽光を貫いて閃光が走った。数秒後、爆風と破壊の轟音が 半裸を襲った。衝撃波に依り空気が見えた……。勿論、何事が起きたかは理解出来ず、本能的 に広場に避難した。キノコ雲はハッキリ見え、それが時間の経過と共に巨大な雲の柱とな り、真夏の青空に立ち昇ってゆき、中空では稲妻も光り雷鳴もあった様な気がします。
 工場のスレート壁はハガレ落ち、この黒雲が所謂黒い雨となって風下の集落に多大の損害を出した。鉄骨がムキ出しになり、向きに依っては屋根瓦も割れ、天井も落ちた。20分位後か……。

  宿舎の2階に戻ると午後組12名は総てガラスの粉塵を浴びて重軽傷を負っていた。時間を経ると市の中心部より避難する人が増え、火傷に依る重傷者が多く隣接する建物が救護施設となり、収容された。
 十五日の終戦のラジオ放送は聞えたが妨害電波の為か殆ど内容は理解出来なかったが、終戦は分った。其の夜街の数ヶ所から仄かな灯りが数ヶ所に見えて、平和が戻ったのを感じた。
 我々を派遣した本隊は日本原から、鳥取県、米子近郊に移駐、本隊位置確認の為、8月23日迄広島待機、太田川の堤防の根元で何百の死体を焼却の現場を見たが、燃料が不足しているので殆ど半焼けだった。
 私達は工場支援に派遣されたので、死体収容や負傷者救助の命令はなく、市の中心部には 行かず、被爆者健康手帳の申請はしなかった。10年前の50周年には市の慰霊団に自費 参加をして式典に参列しました。その後、3回広島を訪問しています。
(2010年修正)