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広島の声

女性 不明
被爆時20歳 25

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  合掌

 昭和20年8月6日午前4時空襲警報解除で姑は義弟を起して登校させた。のちのちま でも姑は私が14才の義弟を殺したと人格が変った。奉天以来各地転々とした桂家は当時 父中支派遣で主人は高千穂降下部隊で出動中・弟陸軍士官学校、3男陸軍幼年学校、5男・ 私・赤ん坊・妹・姑と義弟の暢かな暮らしであった。広島市幟町から5月に移り、 Y様方でここから山を降って古市橋電車で市中に通学していた。

 炊事の後片付後土間を掃いている頃左視角にピンポン玉の強烈な光。ハッと真向うまもな くさくれつしたピンポン玉は大入どう雲となった。姑は玄関で孫を遊ばせていたまま抱え て押入のふとんの中へ……。3時頃ゾロゾロ数珠つなぎに避難者が山へと、私と妹 は下へ降りていった。20才迄生きてこんな恐ろしいことに逢うとは。背のヒフはヤケタ ダレブラリとタレサガリ。頭が異様に大きい人、手のない人、足が片方だけの人、消防や 青年から止められてその日は帰る。8月7日一家中5人で横川あたりから家や電車のむざ んな姿、防火用水ならと飛び込んでむざんな女の人、巨大な牛が車と共に、足の踏み場もな いガレキの中身内を探す人、立札を立てる人。8日には穴を掘った中へ物を投げ込むよう に死体の山、夏の事とてうじ虫がすぐ生れ9日にはそれに油をふりかけ火をつける何とも 云いようのない臭い。香水をハンカチにマスクにしてもダメであった。忠義を探して宇品 迄行った、テントで名ボが用意してあったが何の役にもたたなかった。義妹(21)は学校 の方に行って足を握られ水ミズと所望されあげたいけれどあげられなかった。3、4日通 ううち嘔吐烈しく下痢この世のものと思えずお尻のあなが痛くなり義妹たちにたのみまし た。生きていれば74才位か4男義弟のおもかげ消ゆることなし。
(2005年)