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広島の声

女性 不明
被爆時27歳 286

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  私の思う事は亡くなった人達をお気の毒と思います。
 家族全部亡くなった人たちはばかり、何時も思う事は心の中でどなたも苦しい思いがあっ たでしょうと思いは、その人達の顔が浮かんで何をするのも嫌になります。
 それと私のように六十年近くも背中つけてねた事なく満足に歩く事も出来ないのは 幸福かしら、お薬は病院行けば頂けますが私は薬なしでは生きていけない、又歩くことさえ できないですから。亡くなった人が幸福かわかりません。
 その様に考えますが、生一杯生きて行きます。
(2005年)

(本人入院中のため長男記す)
 母は再婚であり、先夫の兄が、S19生で、広島で被爆してます。私はS29生で、私の 父も広島で被爆してます。
 25年前に亡くなった父は、被爆の事は、何も言わずに亡くなりました。私が、幼い頃に 母から聞いた被爆時の事を思い出す限り書いてみます。

 母は、当日、仕事を他の方に頼まれて、代わったそうです。(勤労ほうしか、通常の仕事 かは分りません。ただ、代わったその方は、亡くなったそうです。)
 被爆当時、町を歩く人が、全身衣類を引きずる様に歩いていたそうです。実際は衣類では なく、皆、焼けただれた皮フを引きずりながら、逃げていたそうです。
 又、皆が、水をほしがり、水をあげると、皆、死んでいったそうです。母自身も爆風で衣 類を全てはぎとられ、背中には、無数のガラス片が、ささっていたそうです。その後数週 間、何もない畑で野宿したそうです。当時、1才半の子供(現在の義兄、戸籍別です)を、 かかえ大変だったと思います。畑で寝ている時に兵隊さんから赤ちんで治療してもらった との事です。

 又、畑で寝っている時に死体処理の兵隊から、足をもたれ、「兵隊さん、私は生きてます。 」と言った事もあり、その時の兵隊さんから「頑ばれよ。」と言れて、カンパンをもらっ た事が、うれしかったとも言ってました。
 被爆者が段々高令になり、当時の事を、話せる人も減って来ていますので、ぜひ、後世に まで残せるデータベースを作って下さい(二世より)。
(2010年追記)