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広島の声

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藤田成矣さん 胎内被爆
埼玉県草加市2161

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  胎内被曝である為被爆の体験はなく、当時のことについては、そのほとんどが母親から 聞いたものです。父親はまったく語ることなく、母親もあまり多くを語っていません。

 1.はじめに
 戸籍上の生年月日は昭和21年4月11日となっていますが、事実は3月のようです。胎内被曝ですからヒバクシャとしてはもっと若い部類に属すると思います。
 広島・長崎の被爆者が年々減少していく中、被爆者手帳を持つ最後の一人が死ぬ時、新聞は「最後の被爆者が死んだ」と書くのではないかと思い、それまで生きて、わずかだが語れるものは語り続けたいと思う。

 2.被爆直後のこと(大部分は母親からの話)
 母親が牛田の自宅から江波へ向けて電車(広電)で移動中、大手町の鷹野橋電停付近で被爆。ドーンという音とともに電車が倒れ、一瞬気を失う。気が付いた時、あたりは真っ暗であった。(夏の朝なので真っ暗なはずはないが、強い光で一瞬目が眩んで見えなくなっていたのではないかと思う)
 やっとの思いで電車から這い出し、江波へ向けて歩いていった。2〜3日して牛田の自宅に 戻るが、父親は宇品で被爆後、連絡はなく1週間帰ってこなかった。行方不明の状態であった。

 父親は牛田に帰ってきてから40度以上の高熱が続き寝込む。4軒隣の人が亡くなり、次の夜3軒隣の家、次の夜は2軒隣の家、次の夜は隣の家の人と、なぜか順番に亡くなっていった。「いよいよ次はうちの番か」と思ったが、運良く命は取り留めた。被爆時、大きな壁の反対側にいて助かったらしい。壁の反対側の人は助からなかったという。
 母親は電車の中、父親は大きな壁の反対側ということで、見た目には火傷のあとは見られない。牛田の家は屋根瓦が吹き飛び、雨の日は家の中で傘をさしていたという。
 2008年2月、父親が亡くなった。90歳。市役所に勤めていた父親、現役時代は日曜日になると一日中寝ている状態だった。退職して70歳ころからは、ほぼ寝たきりであった。

 3.ABCCのこと
 小学校のころ、なんだかABCCから迎えの車が来る。そのころ車に乗っている人なんかいない。タクシーだって乗れない時代、大きなステーションワゴンで迎えにくる。父親や母親ではない。小学生の私をだ。同級生全員ではない。私だけだ。なぜだ???なんだろう???
 それまでもその後も被爆のことについては多くを聞かされてはいないが、否が応にも感じないわけにはいかなかった。考えないわけにはいかなかった。不安とともに。
 中学生になるまで何回ABCCに行っただろう。高校生になってからと思うが、拒否することを覚えた。
 小学校の同級生に小頭症の子がいた。自分も同類なんだと思った。その後どうしたか知らない。

 4.中学校の教員になって
 乏しくとも体験を伝えるのが使命と思い、機会を捉えては話をしてきた。今思えばもっと上手に話せばよかったとも思うが、うまく伝わっただろうか。

 5.長男の誕生
 結婚して初めての子が誕生した。五体満足に生まれてくるだろうかと内心は心配でならなかった。生まれてきた時、全身が白かったので、一瞬「うっ!」と思ったが、体についた脂肪だと分かり、産湯後は普通だったのでほっとしたのを覚えている。いつも頭の片隅に被爆のことがあるのだろう。
 また、たいしたことでもないのに体調の悪いときなどに「もしかしたら」と頭の中に浮かび上がってくる。

 6.終わりに
  核爆弾が他の爆弾と違うところは、今現在健康上の問題がなくても(結果的に何もなくても)「今後、体に何か起こるのではないか」という不安が常にあることです。この不安が一生涯続いているということです。
(2010年書き換え)