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長崎の声

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郡家徳郎さん 直接被爆・距離2km(下西山)
被爆時16歳 / 熊本県熊本市8352

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 当時、私は長崎中学の4年生で三菱兵器幸町工場(爆心地より1.5キロメートル)に学徒動員されていたが、8月9日は昼夜2交代制の夜番で、午前中は自宅(爆心地から約2.5キロメートル)にいた。
 11時2分、B29の急旋回音に異常を感じ窓から空を見上げて振り返った瞬間、 目も眩む閃光と背中に焼けつく強烈な熱線、轟音と共に物凄い爆圧で床に叩きつけられた。
 倒壊した本棚の下敷きとなり、頬や腕にはガラスが突き刺さり血が噴出していた。やがて 近くの金毘羅山背後から不気味な黒雲が湧き昇り、べとつく“黒い雨”が降り注いできた。

  浦上上空での原爆炸裂、阿鼻叫喚を知る由もなく何事が起こったかと訝った。夜更けても 長崎大学薬専の学生であった兄は戻らず、不安な一夜を過ごした。一夜明けた朝、金毘羅 山を越えて爆心地に向かった。途中、全身血まみれでよろめき歩く人々、顔面が裂け瀕死の 状態で身体を震わせつつ、水を求め呻いている人々を見て脅えたが、その恐るべき姿は山 頂近くになるほど酷くなった。山頂からの眺めはまさに我が目を疑う光景で、昨日まで見 慣れていた長崎の町並みは見渡す限り消滅し所謂“原爆荒野”と一変していた。爆心地へ と駆け降りたが、“水を”“水を”と力無く求める瀕死の人々。皮膚が剥離し真っ赤に焼け て苦痛に悶える重傷者。爆圧で突出した両眼。炸裂した腹部から流れ出た腸や臓器。両手 で天空を掴みつつ炭化した黒焦げの死体。浦上川には猛火に追われ焼かれて飛び込んだ 人々の焼死体が累々と重なり流れていた。倒壊した長崎大学、附属病院の跡には死者、重 傷者が重なり倒れていたが兄の姿は見当たらず絶望の果てにすべてが空虚であった。薬専 の学舎は灰儘と帰し白骨化した遺体の頭蓋骨が散乱していたが、そこにも兄の記憶を残す ものは何一つ見つけることが出来なかった。

  長崎の原爆死傷者数は1945年末で約7万人(当時長崎人口の3分の1)とされるが、 その後13万を越えるに到った。家族や友人と共に幸せな日常を過ごし、将来に多くを夢 見ていた人々の命を無惨にも奪い去り、生き残った者をも生涯の痛苦で苛む原爆投下の非 人道性は許されてはならず忘れてはならない。口で平和を唱えながらも世界での争いは 絶えず、むしろ拡大激化の傾向すらある。戦争で最も犠牲者となるのはいつの時代も罪な く弱き市井の男女、子供たちなのだ。人類の未来に向かって我々は長崎・広島の惨劇を語り 続け、核の恐ろしさ残酷さを永遠に記憶すべきである。
(2005年)

  8月9日11時を少し過ぎた頃、”キューン“と頭上に大きく響いたB29の異様な金属的爆音は、65年経った今もなお耳の底から離れない。その不気味な響きは、原子 爆弾の投下ボタンを押した直後、爆心地の上空からいち早く逃避すべく急旋回した正にその瞬間だったのだ。数万度の想像を絶する灼熱高温の大火球が炸裂、音速3倍の 衝撃波と強烈なプルトニウム原子核の放射性熱線。突如として、地上に立つすべてのものが崩壊炎上し、女性や子供たち、赤ん坊まで、無差別に人々は黒焦げに焼かれ火の 海に包まれたのである。
 あの朝、兄(淑郎・よしお)は何時ものように大学に向かったが、間もなく゛万年筆を忘れたから取ってきてくれ゛と玄関先まで戻ってきて、笑いながら私に手を振り振り元気に 出かけて行った。その白い夏服の後ろ姿が兄を見る最後だった。2年前に母は亡くなり、その命を奪った“ガン”の研究に意気込んでいた兄であったが、その夢を絶たれ、 20歳の若さで旅立たねばならなかった兄の悔しさを思うと胸が張り裂けんばかりに痛む。忘れ物で戻ってきたのは、最後の別れを惜しむ虫の知らせだったのだろうか…。
 当時、仕事の関係で長崎を離れていた父は旅先で異変を聞き、連絡の途絶えがちな汽車を乗り継いでやっと長崎まで辿り着いたものの、余りにも変わり果てた爆心地一帯の 惨状と予期せぬわが子の運命に直面して、言葉も無く悄然としていた。今は亡き父のその時の姿を思い浮かべると、いかにも哀れであり涙が溢れるのを禁じえない。

  前稿にも記したが、大学の薬学基礎教室の焼跡(爆心地500メートル)に埋もれて散乱する白骨を見て、私は全身から力が抜け落ちる絶望感に打ちひしがれたが、遺体が 見つからぬことから、兄はどこかに生き延びているのではないかという微かな希望もあった。焼け残った市内の小学校には多数の怪我人が収容され、医師不足、薬不足で殆ど 手当てらしき手当てもされぬまま、筵を敷いた床の上に所狭く並んで寝かされていた。真っ黒に焦げて傷ついた顔は見分けるのも容易でなく、人々は苦しみつつ、日に日に 次々と死んでいった。そして校庭や街の隅々に死体が運ばれ、寄せ集めた僅かばかりの燃料に火がつけられて焼かれていった。長崎の街はいたるところが埋葬の場となり、 黒い煙が立ち上って死臭の漂う日が幾日も続いた。このような状態にあっても、ある日、ひょっこり兄が戻ってくるのではないかと思ったりした。そして、この果敢無い奇跡を 幾年もの長い間、心秘かに願いつつ夢にもみていた。しかし、やはり兄は戻らなかった。我が家の墓は長崎港を見下ろす禅宗福済寺にあったがその寺も原爆で全焼した。先年、 墓地を改装したおり骨壷を開けてみた。父母の骨は灰白色であったが、長崎市から兄のものとして分骨された頭骨は赤褐色をしており、原爆投下時の焦熱地獄の名残を留めて いた。

  被爆当時の体験は思い出すのも苦痛であり、言葉にするのも辛く至難である。しかし、1945年8月9日に長崎に起こったこと、目にしたことを語り、戦争の愚かさと矛盾、 原爆の齎した人類への罪を永遠の記憶として、後世に伝えることは生き残ったものの責務であるとつくづく思う。
(2010.3.15記)