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長崎の声

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松尾久夫さん 直接被爆・距離1.1km(大橋)
被爆時17歳 / 長崎県長崎市8285

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 1.一度に5人の家族を亡くした事。
 平和を願いあらそい事をなくすこと。
(2005年)

    私の被爆体験 今も忘れられない光景

 私も82才になりました。65年前の出来事で、もう忘れ去った事、かすかにしか思い出せない記憶がたくさんあります。私の家族も原爆で5人が犠牲になり3人が 行方不明です。今でも昨日の出来事のようにはっきりと目に焼き付いている光景があります。

  昭和20年8月9日 朝から晴れ、朝食をすませ母に行って来ると言って家を出ました。1、2分ほど歩いた時「久夫」今夜は帰って来るのか?と後ろから母の声が したので、振り返って見ると母が通りまで出て立っていました。

 当時、私は三菱兵器製作所大橋工場で、航空魚雷の部品を作っていました。(原爆中心から1200米ほど 離れた位置)に勤めていました。その夜は防空当番でしたので「今夜は帰らない」と返事をすると笑顔だった母の顔が寂しそうな表情に変わり、へんだなと思いながら 工場に向かいました。これが母との最後の別れになろうとは思いも寄りませんでした。母がこれから起きる別れを予感して最後の姿、会話を私に残してくれたと思うと、 その時の情景は私の心の中から消えることはありません。

  工場に着き、ラジオ体操をして作業に取り掛かりました。昼近くになり女の子が夕食の食券を集めに来て、 渡しながら隣の人達と雑談をしていると突然「ウワット」と言うフラッシュを焚いたような強烈な光と音が後ろからしたので、あら、何が爆発したのかと振り返って見る と、外は真っ赤に燃えた火の海でした。「ここまでは記憶が有りました。」

 私は無意識の内にその場に伏せていて次の瞬間、身体が爆風で地面に締め付けられる感覚で 我に返り、立ち上がろうと思っていると、組長さんが、みんな大丈夫かと叫ぶ声に、大丈夫と答えて立ち上がって見ると様子が一変していました。屋根は吹き飛び、鉄骨の 梁や柱は折れ曲がり空は舞い上がった砂塵かで、かすんだような空と赤く鈍く光る太陽が見えていました。何が起きてこの被害になったのかと呆然としながら組長さんの 所に行きました。外の人達も集まって来て、この状況を話し合ううち、誰かが、工場に火が点いたら大変なことになる、急いで外へ出ようと決まり、出かかったのですが、 倒れこんだ障害物が重なり合い隙間を見つけては、乗りこえたり、もぐったりして必死の思いで外に出ました。外でも建物という建物は破壊されていました。

  工場を出て家に帰ろうと走っていると、あぜ道の先に線路が見えていたので、あぜ道を走って線路の石垣を這い上がり線路に立ち、市内の方を見ると、線路の多くの枕木から白い 煙の様なものが立ち昇っていました。私は線路を走りながらこの悲惨な状況の意味を考えながら走っていたとき、左足に釘を踏んでいました。ここで初めて素足で あったことに気づきました。枕木から煙が出ていたところを確めると、燻ぶっているだけでした。自宅に帰ろうと岩屋橋(大橋町にある)付近に来たとき、私を呼ぶ人 がいるので、何か用ですかと尋ねると、倒れた家の中から助けを求める人がいるので、手伝ってくれと頼まれました。中を覘いて見ると女性の姿が見えました。そこで 2人で苦労しながら助け出すことが出来ました。見たところ元気そうでした。この付近はまだ燃えている所はありませんでした。

 家に帰ろうと思い本大橋まで来て見る と橋桁が落ちていましたので、どうしようかと考えていると母が、明日、西町の畑に行くと言ったのを思い出し、来た道を引き返し畑に向かいました。来るとき線路の 枕木から出ていた煙は、大部分は消えていました。畑に着いて母を捜しましたが見つかりませんでした。この遠いところまで来て一人で百姓をして家族のために働いて いました。私が残業で夜遅く帰っても、先に寝ることなく「いろろ」傍で縫い物をして私の帰りを待っていてくれた優しい母でした。

  畑をあきらめ帰る途中、線路の近くに来たとき道わきの木陰から、兄さん水を飲ませてと声がしたので行って見ると3人の女子学生が寝ていました。僕、水は持ないよと返事をすると、田の水でいいから 汲んで来てとたのむのですが、汲んで来る物が無いし困ってしまい、当時救護訓練で怪我をした人には水を飲ませてはいけないと教えこまれていたのを思い出し、その話 をして救護隊の来るまで待っていなさいと言ってその場をはなれました。暫くして列車が道ノ尾駅の方から下って来て浦上川に架かっていた鉄渠の手前で止まり、暫く して引き返して私がいた近くの踏み切りをまたぐようにして止まり、最後尾の列車の入り口にいた人が怪我をした人がいたら連れてきて乗せて下さいと呼びかけられ ました。そこで近くに寝ていた女子学生3人を乗せた後私も乗って見ると、この車両には3人だけが乗っていました。私が降りた後列車はこの場を離れて行きました。

  「後の救援列車、午後1時〜1時半頃」その後、自宅に帰ろうと岩屋橋付近まで来て見ると、付近はすでに燃えつきていました。自宅の見える所に立ち自宅はと見ると 家が無い、ここに来るまで自宅は在るものとばかり思っていたのです、山里小学校の運動場の中を自宅の方に歩いていると、誰かが倒れているので見ると末っ子の弟でした。屋敷から30m離れた所でした。屋敷に上がって見ると、燃えるものはなに1つ残っていない、隣の屋敷を見ると上半身が黒焦げになった遺体を見ました。

 家族が心配で近くの防空に行って私の家族を見ませんでしたかと尋ねると、姉さんが中にいると聞き中に入って見ると、大勢の人が寝ていたので足もとを気にしながら進むと、中ほどに壕の壁を背にして座っていたので、名前を呼んでも返事が無いので肩に手をかけ、呼びましたがすでに亡くなっていました。姉までも死んだのかと悲しくなり涙が出て参りました。その後私は不安になり工場の人達が集まっていた照円寺の所に行き、組の人達と今日の出来事を話し合いながら過ごしました。

  時間も過、夕方近くになって汽車が下って来て目の前でとまりました。すると大勢の人達がなだれ込むように乗り込み帰りました。残った人達も寮に帰ると引上げて行きました。私はあとに 残されて不安になっていると、組の四人が二人の女子挺身隊の人を連れて来て、友達が怪我をしているので、長与駅近くまで送ってほしいと頼まれ、私にも手伝ってほ しいと頼みにきました。私がためらっていると、傍にいた女性達も是非と頼むので行くことにしました。怪我をした人のところに案内されて行って見ると、すでに「タンカ」 に寝かされていました。それから薄暗くなった夜道を5人で交代しながら「タンカ」を担いで歩きました。

 ここで私の8月9日が終わりました。
 核兵器を無くし戦争の無い平和を世界の指導者にお願い致します。
(2010年追記)