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長崎の声

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富田芳子さん 直接被爆・距離1.8km(住吉)
被爆時6歳 / 東京都葛飾区8047

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は昭和二十年三月に台湾のキールンから引揚げて来て、両親の仲人が、1人息子さんが特 攻隊で亡くなった遺骨を受取りに来て長崎に住んでいたのを頼りに長崎に住むようになり ました。家族は、父は南方で兵隊に取られ、母は28才、長女の私は6才、次女4才、長男1才8ヶ月の親子4人、死を覚悟で船に乗りました。最初に乗るはずだった船には空襲で乗 りおくれて、無理に頼み込んで乗せてもらった。おかげで日本に帰れました。最初の船は 途中で沈没したそうです。ここまで来るのもいろいろなドラマがありました。そのせいか 被爆の前後もよく憶えていました。

 それでも確かめたくて、平成15年8月9日長崎市の平和祈念式典の後、ピースウィング長崎に収めた母の写真を見た後、教えて頂いた通り、図書館 で地図を探していただいて、僅か5ヶ月間しか居なかった住吉町の住んでいた場所へ行きま した。おそるおそる玄関に入って58年前の8月9日の朝から原爆の落ちたその時までを話 をしてる途中で、目の前の同年代の女性は興奮しながら「私」「私」とそこにいっしょに居 たことを憶えて居て、その後、2〜3時間、あの日のことや、あの頃遊んだいろんな想い出をおもい出した順番に話を続け、時のたつのも忘れて語ってました。これで私は自分の記憶 に自信がついて、これからもあの時見た無残な情景、助けを求め、苦しんで苦しんで亡く なられた人々の声を伝えたい、私はきっとあの人達が守ってくれて生かされてるのでは、 と思うことが沢山ありました。次世代に私のような体験はさせられません。私達が生きて るうちに核兵器がなくなることを祈っておわりにします。
(2005年)

     私の被爆体験
  私達親子の被爆地は、爆心地から一.八k離れた長崎市住吉町(現在赤迫二丁目)です。二階建の四軒長屋で右の家には長崎市の保健所にご主人が勤めてて次が我家、左側二軒はその頃近くのトンネルを掘っていた飯場の責任者一家が住んで居ました。
 私の家族は母が二十八才、私六才、妹四才、弟一才八ヶ月、父は遠洋漁業(社名林兼)の機関長をして居ましたが昭和十九年春頃船を軍に取られて、父はシンガポールあたりで徴用されて、船の修理に従事してましたが、修理する船も無くなり兵隊に入隊して留守でした。
 八月九日はお天気も良く、母は大家の奥さんの畑仕事を手伝いに山に行きました。私達兄弟は大家の娘さん小一と弟さん、隣の小四か五年生ぐらいのお姉さんの六人で、私の家の前にゴザを敷いてママゴトをして遊びました。
 11時近く陽射しも強くなって母達は畑から帰って来ました。私が気づいて「かあちゃんが帰ってきたぁー」と叫びながら家の中に入って行きました。すると皆んなも続いて私の家の中に入って来て母の周りに座るか座らないその時何んだったかはっきり覚えがないのですが、直ぐ防空壕へ行かなければならない知せがありました。
 母は父がいなくなってから残して行ったタバコを徒に吸っていましたが、この頃は手放せない位になって居ました。
 皆なは防空壕へ行く気で立あがったのに母は「もう一服させてね」と言って座って居ました。私は今のうちにとトイレに行きました。オシッコをはじめてすぐに「ピカッ」と光が走りビックリしてトイレの上の方にある窓を見ると、右上の方から左下に向って虹のような七色の光りが一瞬走りその後「ドォーン」と大きな音がして家が大きくグラグラ揺れ怖い思いをしました。

  慌ててモンペ上げ皆んなの所に行くと母が大きな声で「早く皆んな此所に伏せなさい」と言ってるので私もそこに倒れるように伏せて揺れが修まるのを待ちました。静かになると母が「サァーすぐ防空壕へ行きなさい」と言うので、先入って来た玄関に履物を取り行くと一足もありません。ガラスの引戸も吹き飛んで無くなってました。気がつくと家の中はメチャメチャで足元はガラスの破片で踏み場がありませんでした。履物がないことを告ると母は裸足で行きなさいと言いながら心配そうな顔で膝に抱いていた弟の顔を白いエプロンで拭いていました。よく見ると母の額いから血が噴きでていて、その血が弟の顔についたのを弟が怪我をしたと思い夢中で拭いていました。この時私の家の中には私達親子四人と隣のお姉ちゃんそれに大家さんの娘さんの六人が居ましたが怪我をしたのは母がガラスの破片で額いを切っただけで済みました。
 もう一人いっしょに居たと思ってた大家の息子さんは私と同じようにオシッコがしたくて自分の家のトイレに入って居て無事でした。母は三角巾でシッカリ額いを縛り弟を背負いました。外に出ると向いの物置小屋の屋根に干していた弟の布団に火がついて燃えていました。 大きな声で母に告げると慌てヽ出て来て側にあった防火用水の中の水をかけて消しました。振り返って家を見てビックリしました
 右隣の家は全壊して私の家の方に伸し掛かりその重みで私の家は左の家の方に傾いて今にも潰れそうに建っていました。
 丁度山陰になるような所だったのでこの位の損害でしたが、少し先の所にあった家は潰れてました。ガラスの破片や瓦礫が散乱した細い坂道を上った所に防空壕はありました。坂の途中で足が滑て膝を少し切ってしまいました。

  妹は無事でした。暫くして下の方から弱弱しい声で「助けてー」「助けてー」と言う声がして来て母は弟を私に渡して下りて行きました。暫くする大家の奥さんと戸板に女の人を寝かせて上って来ました。防空壕の通路に藁に寝かせ人を下して、又急いで下りて行って戸板に藁を敷いて女の人を運んで来て通路に下しました。母は私にこの方達に近寄ったり顔を見たりしてはいけないと念を押すように言って出て行きましたが、夏の暑い日中防空壕の中は咽せるような空気になって我慢出来なくなって外に出ました。
 その時見えてしまいました。最初に運ばれた人は隣の次女の娘さんで女学生でした。身体の後側全体が火傷でうつ伏に寝てました。二番目に運ばれた人は長女の人で女学校を卒業して家事の手伝いをして居ました。二人共美人で私の母は何時も「お前達も隣のお姉ちゃん達に肖れると良いね」と言ってお二人を誉めていました。その二人が原爆に遭って無残な姿で横たわって居ます。あれほど見ないように言われたのですが見えてしまいました。長女の方は火傷がひどく特に顔はどちらかの目が飛び出て頬の上まで垂れ下り、鼻は崩れたようになって、別人のようでした。身体中が傷むのか苦しそうに息をしていました。外に出て安全を確めて下に下りて行くと、私達の生活に使って居る井戸の所に長い行列が出来ていて、その人達の殆どが火傷や怪我がひどく、並んで居るうちに倒れたり亡くなる人もあったようです。と言うのには、後日何体かの死体を薪を集め焼いたのです。

  保健所に勤めている隣のおじさんが夕方無事に帰って来ました。そして母に教えてくれました。今日の爆弾は何か解らないけど市内の方は全滅で交通機関は何も無いから此方へは行っては駄目です。然し貴女には小さい子供が三人も居るのだから早く遠くに逃げなさい。この暑さでどんな流行病が出て来るか解らないからと言って、ご自分の家からは何も取り出せず 潰れた事だけ確認して家族が遊びに行ってる奥さんの実家に行きました。
 その頃左隣のおじさんが松葉杖をついて帰って来ました。現場で怪我をして手当をした後中学生の息子さんを探しに行ったけど見つけ出せず肩を落として帰って来ました。この家族で無傷だったのは私達と遊んで居た末子の娘さん一人でした。おばさんと娘さん二人は朝から買出しに行っていて、原爆が落ちる直前に家に着き、最初におばさんが家の中に入って次に次女の娘さん、その後、長女の方が居たそうです。それで一番軽い火傷と怪我はおばさんで一番酷いのは後に居た長女の方だったようです。この事を聞いた時私達はびっくりしました。お隣の方々が怪我をした隣の玄関前で爆弾が落ちる四、五分前まで私達はママゴトして遊んで居ました。もし母の姿を見ていなかったらあのまま遊んでいて爆風で飛ばされて知らない所で死んでしまったかも知れません。
 こうして考えますとよくここまで無事に生きてこれたなあーと思います。その後は母は四九才で病いで亡なりました。

  父は昭和二十年の暮れに痩せ細った身で帰って来ました。私達の原爆後遺症と思われるのは弟が三十代で白内障になったことです。ガラスで額を切った母の血を顔面いっぱい被り母が心配したあのことを思わずに居られませんでした。
 その他、兄弟三人が背骨がずれて居ます。それでも皆んな定年(六十才)まで大病せず勤めることが出来たことは幸せでした。
 被爆後五十八年たって被爆地を尋ねて、大家さんの娘さんが私達が借りて住んで居た所に建替た家に住んで居たので、お会い出来てあの頃の想い出を話した後、最后にあんな残酷なことは二度と見たくない、戦争も核兵器も世界中からなくならないと、あんなに沢山の人達を苦しめて殺したんだからと今の平和を感謝しつゝ自分に何が出来るか考えて居ます。 (2010年追記)