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長崎の声

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宮田美千子さん 直接被爆・距離0.7km(城山)
被爆時10歳 / 長崎県諌早市1148

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私が小学5年友達が6年同じ家にいて右と左に2、3歩動いたその時、私は家の下敷き になり30分後に意識が戻り掘り出され無事だった。友達は全身にやけどを負いその夜に 亡くなったと後で聞かされた。それ以後20年は城山へはいかなかった。
(2005年)

  昭和20年8月9日、この日空襲警報が解除になり、その当時は班長さん(6年生)の家で自習をしていたので、近くの久松さんのところへ出かけていた。11時になって畑の向こうの道を自転車で走っていく父を見た。「ああお父さんが来た。わたしかえる」といって土間の方へ2、3歩移り友達は飛行機が来たといって縁側へ出た。その瞬間午前11時2分ピカーとした光りとだいだい色のまん丸なお月様のようお日様を見て何もわからなくなってしまった。それからどれくらい時間がたったのだろうか、真っ暗な窮屈な中にいて何もわからない。体を少し動かすとザラザラと土みたいなものが、落ちてくる。真っ暗な中にいる、そのとき誰かいるのかどこにいるのかと呼んでくれる声を聞き、声をだしてここにいると返事をした。大人の人が少し時間がかかって下敷きになった家の下から、私を掘り出してくれた。久松さんのお兄さんだった、そして大きな梁の下だったが梁が直角に曲がり小さかったのでその中にいたと言ってくださった。
 どこも怪我をしないで無事救出してもらった。外に出ると周囲には何もないのでお兄さんに連れていかれるままに、近くのみんながいるところに連れて行ってもらった。皆な怪我をしたり黒く焦げたような人が寝せてあった。そこで大人の人が爆弾が落ちたらしいと教えてくれた。

  靴も何もない裸足のままだったが歩いても痛くない、家がすぐ近くなのでそこにいた妹と走って家に帰った。そこには意識が無いシーツに包まった父が寝かせてあった。おばあちゃんと妹と弟で父を見守った。そのとき城山国民学校5年生の私は、みんなを守って生きなければいけないと強く思いました。夕方になってくると周囲の人たちは小さな声で父がもうだめだと、子供がたくさんいるのに可哀相に、という話し声が聞えてきました。ますますこわくなるが火が焚けないので、森の中の小さな川のそばで、おばあちゃんが取り出してくれた乾パンを食べて月の光を眺めながら重なるようにして横になった。
 次の日あたりが明るくなってきても父は動かない。そして爆弾が落ちて24時間たった時父は目覚めた。何か食べたいという父の言葉に明るくなったので祖母がご飯を炊いてくれた。父はそれをおいしい、おいしい、といって食べた。3時間くらいたった頃、父がここにいてもどうにも出来ない、油屋町の方には、母と姉と生まれて半年になる妹がいる、そちらが心配だといって、祖母に妹と弟を頼んで父は、私におまえは付いてきてくれといって、わたくしを連れて出かけた。
 一面の焼け野が原に、ごろごろと死体が転がり馬は真っ黒に焦げて目玉を飛び出して転がっている。私が被爆した場所は中心から700メートルのところ旧城山2丁目で、父は杖を手にしてそれでも気丈に歩いていく。しばらく歩くと城山国民学校が少し黒ずんで見えた学校が残っている。何か本当にうれしかった。新興善国民学校から転校して2ヶ月しかならないが、学校を見たことはうれしかった。死体や焼け爛れたものの間を歩いていくと電車が真っ黒に焼け死体が折り重なるようにしていた。歩けないので鉄道線路の上を歩いて、浦上駅の近くまで来るとガス会社のタンクがものすごい勢いで燃えていた。

  長崎駅の近くまで来ると家が少し見えてきた。長い時間歩いてはいるが早く母達に会いたいと思う気持ちがいっぱいだった。太陽が沈みかけてきて、薄暗くなってきたそのとき、父が倉庫があるところに寄ってみようといったので、現在親和銀行長崎支店がある場所に、私のうちの土蔵倉庫と木造倉庫があったのでどんなになっているか見てから帰ろうといってみると、木造倉庫は燃えていてなく土蔵倉庫は燃えていた。それを見たとき悲しかった。幼い私の胸にはお雛様もアルバムも、何もかも燃えてしまった。2ヶ月前に県の強制疎開により中島川の築町通りは移転になり、それまで玩具の問屋をしていた家もお店も無くなり番頭さんは兵隊に行き4、5人いたお店の人や女中さん達もみんな家に帰っていなくなり、近くの人を頼んで荷物を近くの倉庫に移したのでした。
 油屋町の家に引越す時はあまり広くない所なので人に頼んで、必要な物だけを運んでもらったと、父がいってました。それなのにすべては灰になってしまった。その前に立ったとき父は私に言った。「美千子ものは焼けてなくなってしまったがまた働くと買うことが出来る。しかし人の命は買うことは出来ない」。皆が元気でさえあればそれでいいと私に教えてくれた。もう日は暮れていた。油屋町に着いた時には真っ暗になった家には誰もいない。町の中は警防団の人が何人かいらっしゃった。城山から歩いてきたといったら驚いて、家にいき父は傷ついた体を横にして休んだ。私は八坂神社の防空壕へ警防団の人に連れられていった。そこには母と姉がいた妹もいた。私を見た瞬間母は城山は全滅と聞かされ、そこの場所を動くことも出来ずにいたので、暗いところで、涙を流して元気な私に近寄ってきた。

  その夜は防空壕で休み朝を待ちきらないようにして、母と一緒に父の所へおりていった。その後寝ている父の背中から123個というガラスの破片を手でぬきとった。母は昼近く祖母と妹と弟を迎えに出かけた。私は父と一緒に臨時救護所になっている新興善へいった。父の首には出血を止めるために洗濯して干してあったシーツが引き裂いて詰めてあった。お医者さんはその傷口を診たとき驚いて、他の先生を連れてきて、あと紙一重で静脈が切れていた良くこれで助かりましたねと言われました。
 夜になって母が祖母とみんなが帰ってきて、家族全員無事にそろい父以外は皆元気だった。
 そして夜になって一緒にいた友達のくまちゃんは全身やけどで亡くなったと知らされ悲しかった。
 次の日も父と病院へでかけました。しかし充分な薬は無く赤チンキを塗る位のものでした。そのあと元気にみえた人たちが次々に亡くなられ悲しい思いをしました。それから終戦ラジオの放送を聴いたとき父に戦争が終わったんだと聞かされた。10歳のときに受けた衝撃の記憶は、私の潜在意識として今日まで胸の奥深く残り原爆の写真や、テレビの放送を見ることが出来ない。確かに体は健康でいるのでなんら心配は要らないようだが何かしら不安はかき消すことが出来ない。結婚のときも県外の人とお見合いをして破談になった人も何人もいた。そのときも不安が付きまとった。私は結婚して3人の子供にも恵まれ現在は孫も8人いて幸せな日を送らせてもらっているが、62年経った今もあの日のことは記憶から消えることはない。世の中に戦争やテロや犯罪はあってはならないと改めて思いました。62年前の記憶をここに書き留めました。
(2010年送付)