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長崎の声

吉冨安美さん 直接被爆・距離0.5km(大橋)
被爆時16歳 / 佐賀県有田町3126

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 少しでも体調が悪いとストレスがたまりやすい。昭和30〜40年代に12指腸かいよ うで貧血し(血しょう板減少症)輸血を6名分した事でC型肝炎が完治してない。(3回入 院)現在も胃薬、肝機能改善薬等欠かさず服用、通院も毎週3日続けて健康管理に努めてい る。春秋の定期健診、がん検診は必ず受診している。
 被爆者の同僚が年々亡くなり、その状況を聞くと病院嫌いが多い。早期発見、早期治療 を心掛けたら助かったかも知れないと考えると残念。
 今の行政者の年令は若く、被爆の悲惨さ放射能の恐ろしさを知らない。被爆者が如何にか らだ、こころのなやみを大きく抱いているかもっと理解して支援し、この様な惨事が二度 とない様努力し、次世代へ伝えてほしい。教育が足りない。被爆者も積極的に語りつたえる べきだと思う。
(2005年)

  私の被爆体験
 今、私たち人間の前にはふたつの道があります。
 ひとつは、「核兵器のない世界」への道であり、もうひとつは、64年前の広島と長崎の破壊をくり返す滅亡の道です。
 今年4月、チェコのプラハで、アメリカのバラク・オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。ロシアと戦略兵器削減条約の交渉を再開し、空も、海も地下も宇宙空間でも、核実験をすべて禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の批准をすすめ、核兵器に必要な高濃縮ウランやプルトニウムの生産を禁止する条約の締結に努めるなど、具体的な道筋を示したのです。
 「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある」という強い決意に、被爆地でも感動が広がりました。
 核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした。

  以上は、21年8月9日長崎市で開かれた、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に長崎市長が述べられた、「長崎平和宣言」の冒頭の宣言文です。
 宣言の主文中のアメリカのバラク・オバマ大統領は、9日、「核兵器なき世界」の実現に向けた構想と努力を特に高く評価され、2009年のノーベル平和賞受賞を発表されました。
 今から64年前、第二次世界大戦にアメリカがヒロシマ、ナガサキに落とした原子爆弾で、沢山の被爆者はとても想像できない3つの大きな被害を受け、犠牲者を出しました。
 1)熱線、数百万度(太陽の中心と同じ)瓦を溶かす高熱、熱線の当たった人体の表面は焼けてしまって炭化し、火傷やケロイドになります。
 2)爆風、落ちた中心地から500mで秒速400メートル、1kmでコンクリート建物さえ全壊、全焼。B29爆撃機3,500機がいっぺんに爆弾を落としたと同じすごさになる。
 3)放射線、原子爆弾の空中爆発によって生じる放射線は、爆発後1分以内に放出される初期放射線と、それ以降のある期間地上で観察される残留放射線の二つに大別されます。この大量の放射線を放出することが通常爆弾との最大の相違点です。

  広島の原爆は、580メートル上空(リトルボーイ)長さ3m、重さ4トン、直径0.7mでウラニュウム。長崎の原爆は500m上空(ファットマン)長さ3.3m、重さ4.5トン、円筒型1.5mで、ブラトニュウム。破壊力はリトルボーイより強いといわれています。
 犠牲者のうち、9歳以下の子ども18%、10歳から50歳の女性39%、60歳以上の年寄りが8%、合計65%が非戦闘員で無差別の大量殺人兵器、絶滅兵器であります。
 初期放射線の中で、特に人体に影響を及ぼしたのがガンマー線と中性子線で、遮蔽物のない屋外では1Km以内の人々はほとんど致死量の放射能を浴びたのです。
 アルファー線、ベーター線など目に見えない恐ろしい放射能が今でも被爆者の体内に残留放射能として白血病、がんなど悪性疾患の後遺症が発生する原因となっています。
 この3つを含んだ2発の原子爆弾で広島14万人、長崎7万人がなくなり、家も全部倒れてしまい、山林も燃えつくし、すべて焼け野原となりました。

  さて、私が原子爆弾を受けたのは、16歳、今の高校1年生。
 長崎市大橋町にあった三菱兵器製作所という軍需工場で、戦場で小型爆撃機に空中魚雷を積んで、敵の軍艦めがけて体当たりして沈没させる爆弾を生産するため、伊万里商業学校から同級生70名が勉強も休み、学徒動員されて、なれない作業に昼も夜も三交代で働かされていたのです。
 食事は、米麦が僅かで大豆粕や大根飯が主食。栄養がとれずすっかりやせ細っても日本の勝利を信じて製作に頑張りました。栄養失調と過労で自宅療養のため一時帰郷する人もいました。(宿舎は「西郷寮」)
 私の職場は、本工場から1Km山手のトンネル工場内にあり、避難させた重要な空中魚雷の部品を造る200メートル吹き抜けのほぼ中央の旋盤作業場でした。

 その頃は、毎日のようにアメリカの爆撃機がくるので、本工場に働いていた女子学生たちが仕事をやめて、安全なトンネル工場へと避難してきました。
 8月9日、朝から避難指令のサイレンがなったので、沢山の人たちがトンネルの中でを避難して敵機のさるのを待っていましたが、10時半頃に避難解除とともにみんながそれぞれの職場に帰る途中、あの原子爆弾が落とされました。