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長崎の声

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尾畑正勝さん 直接被爆・距離1.5km(幸)
被爆時27歳 / 長崎県長崎市9159

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 同じ三菱造船所幸町工場での職場の仲間、同じ位の年令の2人が、熱線を浴びて死んだの を何時も想い出します。
(2005年)

  三菱長崎造船所飽の浦機械工場より昭和18年10月頃と思いますが、幸町工場の機械及び仕上工場に転勤となりました。まだ工作機械もそろっていないので、その工作機械を 据付けし、実際に作業が出来る様になったのは、12月中半頃です。19年の春頃、その当時の中学生、女学生が動員されて、工場に来、又年頃の未婚の女性が動員をされて 工場に来ました。この年になると朝鮮人が多く来て働かされたのです。私と同じ年令の江口君一ツ年上の中山君と同じ工場で働いておりました。
 ところで学徒動員されて来た、中学生、女学生と未婚の女性、それから昭和の20年に来た朝鮮人。これらは皆工場の仕事ははじめてなので、作業は進みません。

  20年8月9日仲間の江口君と朝、今日も警報が鳴るだろうかと話していると、いきなり警報が鳴り、江口君、中山君は決められていた通り学徒報国隊の生徒、未婚の女性達を つれて、工場の外の小高い岡の山の上の聖徳寺の「がけ」高さ12、3m位でしょうか、掘っている防空壕に避難させており、工場内は我々従業員丈です。警戒警報から空襲 警報になり、まもなく、警戒警報にかわったので、防空壕から出て外にほとんどの人がいる。私は工場内で作業をしておりました。11時頃になったので、あと1時間すると 12時になり、昼食を楽しみにしていた。
 その時に目の前がものすごい青白い光線がしたので、此れは大変な事がととっさに思い腹ばいになると同時に(どん)と音がするのと同時に工場のスレート瓦がガラガラとくだけて落ちて来ました。その時、ここで死ぬんではと思いましたが、しばらくすると工場内は静かになりました。

  起き上がって見ると空も又、外も見え、家はつぶれてありません。外に出て防空壕に行って見ると、上や下へと大変なさわぎです。壕の中から「ウメキ」声も聞こえるし、仲間の江口君、中山君は全身がはれ上り、皮膚がむけて中身が赤々として、その時は元気でしたが、2〜3日後に死亡しました。又、同じ職場の永田君は夜勤明で家で寝ていて、家はつぶされ、永田君もそれにより死亡しました。永田君の家は今は若草町と云はれており近くにマリヤ学院(園)の所で年令は私と同じ年です。学徒報国で来ていた中学生、女学生は何人死亡したかわかりません。
 しばらくすると、所々に火がもえだすと、それが、またゝく間に大きな火となり、ものすごい大火事となり、皆な火をさけて、安全な所へと、逃げて行きます。
 私は工場内に居たので、スレート瓦を背に受けたので怪我をしたのですが、その事も忘れ、県内から来ておった少年工2人と私3名で渕神社の所に出て来、稲佐の国際墓地の中を通り稲佐山の中腹を通って飽の浦の方向に向いました。通りながら下を見ると、稲佐の町は皆家はつぶされているが平戸小屋から水の浦、飽の浦方面は家は建っていますが屋根瓦は、無茶苦茶の様でした。
 1時間余かゝって家に帰りついたが、 屋根瓦、硝子は無茶苦茶です。妻に背中をお湯で洗ってもらった時に背中が「ヒリヒリ」しましたが病院には行かず自然に良くなりました。

 世界が2度と戦争の無い社会が来る事を願って、これで終ります。
 私は工場におった為に命が助かったと常々思っております。
(2010年追記)