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長崎の声

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吉原達明さん 直接被爆・距離1km(本原)
被爆時16歳 / 東京都練馬区4864

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 (1) 私の知っている人で死んだ人はいないが、何の罪もないのに無残に殺されるのは、しか も、そのため(原爆投下)にアメリカ国民の若者が多数助かったら良いことというアメ リカ人の気持ちは全く理解に苦しむ。
 頭が割れて(煉瓦で)即死した坊や、ふとんごと吹きとばされて死んだ病人。野外で大量 の薪で焼かれていく死体の数々。思えば、さぞ無念だったと思うばかり…。

 (2) 戦争は絶対にしてはならないこと。アメリカ人が作ったとはいえ、戦争はしないという 今の憲法は世界に誇るべきだ、それを一部の政治家たちが日本の憲法は日本人が作るべき だとして軍隊を持つ憲法をつくろうとしていることが実に苦々しい。政治家は人々を駒の ように使って自らは全く痛みを感じない。全くおかしな話だと思う。こういうことも次世 代へはっきりと知らせ訴えていきたい。
(2005年)

  アフガンやイラクではテロがはびこっている。武器を持たせれば平気で人を殺すテロ組織 は責められるべきだ。日本の自衛隊は武器を持っているとはいえ基本的には使えない軍隊だ。そういう日本だけにある平和憲法のよさを世界にもっと発信すべきではないか。今現在も、テロで殺された人の遺族が嘆き悲しんでいることを深刻に同じ人間として受けとめるべきだ。戦争ともなれば核兵器が大量に使われ、残酷な地獄が世界中に広まることになる。その恐しさは本当にゾッとする。

  ピカドンの時何が?

  昭和20年8月9日、あの日の忌まわしい出来事は、忘れようとて決して忘れられませんし、忘れてはいけないことです。きのこ雲そのものは、私達は見ていません。その時はきのこ雲の底にいたのですから……。爆発した瞬間をピカドンと言っていますが、閃光と爆発音が強烈な印象だったからです。私は何千発もの爆弾が一度に爆発したと感じました。新聞によれば、ある人は「太陽が爆発したのか」と受け止めたそうです。きのこ雲の底は厚い雲の底と同じ暗さです。翌日の大本営発表では「敵は大型高性能曳光爆弾を使用せるものの如し」と言っています。

 正確な情報は、主として米軍が上陸してから新聞紙上で明らかになって来たのです。午前5時ごろテニアン島を出発したB29は2機で投下機と監視機です。監視機とは、投下機を誘導したり指示したり、原爆の投下状況や周辺の状況を撮影したり調査したりするものです。初めの目標は小倉でしたが、厚い雲に覆われて視界が悪いため、晴天だった長崎に目標を変えたのです。この時も2機で連絡し合って決行したようです。アメリカやイギリスではメートル法を使わず、今もヤード・ポンド法(昔の日本で使っていた尺貫法に当たる)ですが、3万3千フィート即ち1万メートル上空で投下、4・5トンもあるファットマン(デブッチョ)ですから一気に9千メートル落下、パラシュートが開いて風でゆらゆら揺れて当初目標の長崎駅を外れて、北へ流され浦上上空で11時2分に爆発したのです。爆心地には捕虜収容所があり、米軍は事前に捕虜が郊外へ労働に出かけて不在との情報をつかんでいたから原爆投下をためらわなかったという情報も新聞に載っていました。広島では600メートル上空で爆発して、4トンのリトルボーイ(少年)で全滅、長崎では500メートル上空で爆発し、4・5トンのファットマン(デブッチョ)で威力は倍の筈ですが、北部は全滅したものの南部の大半は助かりました。

  何故こんな違いが起きたのでしょうか? それは広島は太田川デルタ(三角州)の平地、長崎は駅のすぐ前まで山が迫っているという違いのためです。
 爆発した瞬間は直接見ていないのですが、いろんなデータから考えてみると、地上500メートルで爆発すると、一瞬閃光が走り、太陽表面と同じ3000度もの火の玉が出るが、すぐ消えて放射能を大量に含んだ煙が水蒸気の粒をとらえて雲となり、巨大なきのこ雲(原子雲)が出来上がったのです。この雲は遠く鹿児島からも見えたと言います。大村の海軍航空隊のパイロットが1万メートル上空からだと九州全部が見えると言っていたそうですから、あながち嘘とも言えませんね。その日の朝8時ごろ警戒警報、9時半ごろ空襲警報が出たそうですが、私には全く聞こえず、兄たちものんびりしていましたので、後で新聞を読んで初めて知ったのです。

 被爆の瞬間は、レンガ造りの建物の2階の6人部屋で、窓からはずっと離れた奥の方でした。ピカッと閃光が走り、ついで真っ黒な煙のようなもの(放射能ガス)が走るのも見ました。私達は咄嗟(とっさ)にベッドの下にもぐりこみました。暫くして起き上がってみると、天井の漆喰(しっくい)がはがれて全員真っ白なお化けのようになっていました。が、笑うものは一人もいません。看護婦さんの「すぐ外に逃げて下さい」の声に押されるように、全員すぐに外へ逃げました。外に出て最初に目したものは、小学4年生ぐらいの少年の死体で、レンガが頭に当たり割れて脳味噌がはみ出していました。傍らには虫取り網が落ちていました。私達は近くの崖の下へ避難しました。そのうちに「病院から火が出てるぞ」の声にみんな貴重品などを取りに走りました。窓から布団など投げ落とす人もいましたが、私も2回ほど走りました。院内はがれきが散乱して足の踏み場もありません。そんな中、3階から修道士が女性患者を背負って降りてくるのも見ました。2回目の時は、火が迫ってとても熱かったです。いまでも火事のニュースを見聞きするたび、あの時の火勢の強さを思い出しぞっとします。暫くして病院からお昼の握り飯が配られましたが、ガラスの破片が沢山刺さっていて大変でした。それだけ部屋の中にあらゆる破片が沢山散らばっていたということです。爆発の時、窓際にいた人は受けた側の頬が焼け、ケロイドになりました。

 夕方から院内に入りました。蚊や蛾など虫がいない夜でした。二昼夜すべての虫類が死に絶えたようでした。「この原子野に75年間は一切の生命は生きられないだろう」という噂(うわさ)が流れました。米軍機からばらまかれた宣伝ビラに書いてあったという人もいました。75という数字は「人の噂も75日」から来ていますね。ところが、3日目の朝からどこの救護所でも、火傷の傷跡からウジ虫がワンサカと大発生して、てんてこ舞いの忙しさだったようです。薬が乏しくて、命を落とす人が後を絶ちませんでした。連夜のようにあちこちで死体を焼く煙が見られました。焼かれる時、手足がポキポキ動くのをご存知ですか? 生きているのではなく、筋肉が焼ける時に動くらしいです。すべての遺体を掘り出し終えるのに20年ぐらいかかりましたが、現在では完全に復興しているのは皆さんご存知ですね。

 翌日から私一人で出歩きました。原爆特有の破壊状況というのがあります。日本の建物は木造で弱いので、上からペチャンコに押しつぶされ、兵器工場では鉄骨が飴の様にへし曲げられ蛇がのたうちまわっているように見えて無残な姿でした。電信柱がどのように倒れるかご存知でしょうか? 爆心地だけ直立していますが、周りは離れるに従って大きく傾いていくのです。これも原爆特有の現象です。一切が焼けたので、今まで見えなかったものが遠く見渡せます。これこそ「国破れて山河あり」ですね。

  人など生き物はどうなったでしょうか? もうすぐお昼時なので、団子を口にくわえたまま真っ黒焦げに焼け死んでいる母と子、あっと言う間もない一瞬の出来事で天に召されたのです。布団と畳ごと川へ吹き飛ばされて死んでいた病人(屋内で被爆したので焼けてはいない)、ある時青年団(今の消防団)の人が3人、「手が足りないので手伝ってくれ」と言われ真っ黒なその物体を担架に乗せて担ぎ上げましたが、16歳ではとても重くて一度落としてしまいました。すると「イタタタ……」とその物体が声を上げたのです。まだ生きている火傷の人でした。びっくりしてしっかりと持ち直し救護所へ運んだのですが、その人の死を早めたのではと気になったものです。

 当時は自動車が少なく、荷馬車が多かったのですが、それを引いたままくず折れてお腹が裂けて腸(はらわた)が飛び出し死んでいた馬などなど、もうこの世の地獄としか言いようがありません。皮膚が溶け、幽霊のような姿で山の方へととぼとぼ歩いて行く人たちの姿は、最初の日に遠くから見えていました。また、畑で農作業をしていた人は、火がついたゲートルがすぐに外せず、みるみる火傷してしまったと言います。ゲートルというのは巻脚絆(まききゃはん)のことで長時間疲れない巻き方です。何とも残酷ですね。

 病院では3ヵ月間、とどまっていました。肉親たちに引き取られて帰る人が出て行く中で、私達も西山の親戚宅に行ってみたのですが、結核だからと断られたのです。防空壕の中で貯蔵してあった塩とか、しおれている里芋などを煮て食べていましたが、3日下痢(3日間下痢が続き、1日だけケロッと普通便)で苦しみました。長崎郊外の田上にある療養所へ転院するまで続きました。郊外(山の向こう側で市内が見えず、放射能は届かない)に出たら、3日下痢はケロッと治っていました。つまりは放射能だったということです。放射能のない土地の空気の美味しかったこと、今でもあの時の美味しさは忘れられません。
 今までにもさんざん見聞きしてきた被爆の手記やドラマでは、脳味噌やはらわたが、はみ出ていたというのは見たことがありません。皆さんも無いと思いますが、あれはタブーだったのでしょうか?
(2010年追記)