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長崎の声

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井上和枝さん 直接被爆・距離1.5km(城山)
被爆時16歳 / 東京都杉並区5729

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 (1)すべて忘れられないことばかり。2歳下の妹ほか近所の人の重傷者計4名を佐賀市の病院へやっと運びましたが、終戦の日(8月15日)にすべて死に、私は再び長崎市の自宅跡に戻り、(大分県日田市の伯父と)父、母、姉、弟を自分の手で焼きました。人体は木片ではなかなか焼けないものです。骨もわずかしか拾えず、のこりは土に埋めましたが、その後銀 行と駐車場になった。

 その地の工事会社に聞いても骨は出なかった??そうですが……。
 (2) 人間2人いてもケンカをする。国の争いもなくなることはない。昔から。未来も。殺 しあうことはなくならないと、私は思う。でも、原水爆の破壊の光景はもう誰も見ないほうがいいよ。まして、全身焼けただれ、皮がピラピラたれさがって地獄をさまようなんて。
(2005年)

  (3)原爆で死なず、生き残っても女には結婚差別がふりかかる。
 イ.妹は仲人が「被爆者」と男性側に云わなかったと云って、夫の母親からおなかの子を堕胎させられ離婚させられた。
 ロ.私も、夫側からの求婚でしたが、夫の父(化学者)から「被爆者はやめとけ」と云われたそうです。1965年に私の次女が再生不良性貧血で8才で死にました。私は、国内の沢山の医学論文、アメリカの上院のヒアリングの記論、スエーデンの薬害調査、その他の調査を元に当時乱用されていたC.P.薬害と裁判所に訴え、15年後和解で(負訴でなく)終わりましたが、夫はそれでも、私の被爆のせいだ、と思っていました。
 「もう一人の娘も同じことで死んだら子供、子孫はいなくなる」というので、「ヒバクに関係ない女があなたにぞっこんのようだから、よびがほしいのでしょう」と云ったら、「男の子が生まれた」と女からハガキ。…3年前に夫が死んだ時、その青年を夫の死の床に呼んで別れをさせてやった時、礼儀正しく、夫に似て紳士的だったので、まあ、夫には、よかった。私には辛いけど…と。

  (4)もうひとつ追加 父母姉が死に、6才と8才の弟と妹が残ったので、その二人は、私と兄が養い育て、二人共大学教育をうけさせました。私の電通、図書館、××新聞社の月給は、大阪の図書館での月給以外は、全部兄に渡し、結局私は級で一番、学年で5番以内、だったのに、又勉強好きだったのに、大学には行けませんでした。生涯で一番辛いことでした。兄はマッカーサー一行の通訳(終戦時すでに英語が話せた)、米陸軍技師として、終身働き、表彰されました。弟はブラジルサンパウロに40年、機械設計技師として活躍しています。

被爆時16才
被爆地 爆心地より1.50km 長崎市井桶ノ口町 三菱兵器製作所(学徒動員先) 自宅  長崎市城山町2丁目586 城山小学校近く 爆心地から1.30キロ(正確には知らない)
工場から爆心地を新地を通って自宅に帰る。
(2010年追記)