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長崎の声

甲斐豊さん 直接被爆・距離1km(大橋)
被爆時20歳 / 鹿児島県出水市9948

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
  原爆投下の夕刻から終戦まで
 8月9日原爆の夕刻トンネル工場に着きました。私は覚えていませんが同僚の浜崎強志君が、「ワヤ、着くなりワーッと泣いたど」と後で教えてくれました。トンネル工場とは、重要な魚雷工場の大事な工作機械を、空襲でやられないために、汽車のトンネルよりもっと大きい穴を山に5本掘って並べ、昼夜連続の操業で中はモーモーと油の焼ける煙の立ち籠めるところでした。そこも台風の様に風が吹きぬけたそうで、方々から避難して来た人達が、ところどころに灯されたローソクの光で、原爆の恐怖を盛んにしゃべっていました。
 第一夜は寝たか眠れなかったか覚えていませんが、同僚に友人達が「ワイも怪我してるから病院に行け」と、汽車の来る所まで連れて行ってくれました。傷は小さかったのですが、頭、顔、腕の血が流れまかせだったので、シャツとズボンは血に染まっていたのでしょう。

  田畑の畦道を500mぐらい行ったところが鉄道線路で、そこは浦上駅と道ノ尾駅の丁度中間で、そこから汽車は折返し運転になっています。その線路脇の沿線には何時の間にか何百人の負傷者が集っています。中には座っている者もいますが、ほとんどの人は横たわっていました。よく見ると皮の垂れ下っている者、皮がむけて丁度兎をハダカにした様に焼けただれた者、帽子をかぶっていたのか、帽子の線から上はどうもしていないのに下は線で仕切った様に焼けただれた者、こんな人達は直接熱線を受けて目と鼻、口だけは何とかわかるが、誰が誰だかさっぱりわからない。
 室内で破片に傷ついた人は、流れるだけ流してやっと血が止まったのか、まるで血のかたまりで作った人形みたいでした。私が線路脇に着いてから後も、次から次と被災者が集って来ましたが、一人で歩いて来れる者はほとんど無く、皆背中に負ぶされたり肩を抱きあって来る人達で、線路の脇は何時の間にか1,000人以上も集まっていました。皆線路脇に寝かされたりしゃがみ込んでいたりでしたが、先程書いた血の固まりで作った人形や兎を裸にした様な人の集まりで、その凄絶な光景はこの世のものとは思われませんでした。

 待てども待てども汽車は来ないのに、今頃になってまたぞろ空襲警報のサイレンが鳴っては、半死半生の人がクモの子を散らす様に逃げて行くが、少しでも生き延びようとする人間の本能の仕業か、哀れ極まりありませんでした。そのうちやっと汽車が来て、私達は車内いっぱいにつめこまれました。はじめは大村の海軍病院に収容される予定だったのですが、そこは既に満員で入れないということで30kmも離れた諌早の先の肥前長田小学校に連れて行 かれました。ゾロゾロと皆が連れて行かれたのは小学校の教室で、机を片角に押しやって、一教室に2、30人、床に休んでくれとのことでした。
 待てども待てども医者は来ないし、そんなところに、また空襲警報のサイレンが鳴るので、動ける人は足を引き摺って防空壕に退避しましたが、その哀れさ筆舌に尽くし難し。そのうち2日目の夜を迎えましたが、夜中に精神に異常をききたして気狂いになって喚く人の声を覚えております。夜が明けてみたら、半数近くの人が、既に息が絶えて動けなくなっていました。

  長崎は医者の街だが、長崎医大も爆心地で、医者は居ないし薬もないし、比較的元気な私は、このままでは死んでしまうと思い、帰ることにしました。帰るにしても汽車賃は無い。自分一人の考えか人から教えられたのか、長田駐在所に行き、無賃で乗れる被災者証明書を貰いました。(この証明書は現在も持っています)。それから、どこか畑の果樹園みたいなところに一人で行き、ナスかトマトかよくわかりませんが無断でとって食べ、空腹は充たされ天気は良いし、私はうっとりとどこか夢の国に誘われた様な心地になった想い出が、今も心の片角に残っております。真夏で夜は涼しいし、多分3日目の夜は野宿したのではないかと思っております。
 次の日4日目、帰る前に下宿に行ってみようと思い、爆心地近くで岡町三八番地、大久保さん宅の下宿に行くことにしました。肥前長田からどうして来たのか、よく覚えておりませんが、大橋電車終点近くの線路の枕木の表面が黒くコゲていたのを覚えております。又その周辺の畑や線路脇の砂利がほうきで掃いたように一定方向に撫でられておりました。また、馬が高い堤の中腹に叩きつけられてそのまま死んでいたのも覚えております。

 線路を下りて、大橋電車終点近くから道路を歩きましたが、足には何も履かない素足でしたので、道路が焼けて足が痛く、足を早くかえなければじっと立ってはおられない様な状態でした。また匂いの臭いこと、人間の半ば焼けと腐れた異様な臭気で、鼻をつまみながら進みましたが、あんな強烈な悪臭の経験は後にも先にもないだろうと思います。
 電車終点から国道を浦上の方向へ200m、それから左手に坂道を200m程行ったところが私の下宿先でしたが、坂を一歩登りはじめると、右に左に黒焦げの死体が1体、2体、3体とそのまま散在しておりました。よく原爆写真展で見る、焼け焦げたそのままの状態で、爆心地から200〜300mのこの辺では、爆風で家は木端微塵に壊され、木屑の下でケガで、もがき苦しんでいるところを火に包まれ、地獄の苦しみで死んで行ったものと思われます。たとえ動けたとしても、道路は木屑の山で長く苦しむだけだったのではないでしょうか。下宿まで100mの間に20〜30人の遺体を見たことを、今もはっきり覚えております。

  下宿に行ってみると家跡は灰だけで、そこに下宿の主人(製鉄所の技師)が一人寝かされておりました。そのすぐ後が崖で、下宿の防空壕でした。主人は多分夜勤明けで布団を被って寝ていらっしゃったのか、外傷の少ないところを見ると前庭が空いていたので防空壕の中まで走りこまれたんでしょうか、周囲の熱気で死んでしまったものと思われます。
 かねてから大事なものは防空壕に入れときなさいということで、私の持物も一ぱいトランクにつめて防空壕に入れておりましたが、飛込む時か私のトランクを踏み破って、中の衣類等を手あたり次第、体にかぶって熱さを防がれたのではないでしょうか。私のトランクはほとんど空で、下の方に敷いてあった技手(ぎて)養成所卒業証書、徴用令書等の2〜3枚だけで他の衣類等を入れるでなく、空トランクを鹿児島の家まで持帰って現在も大事に保管しております。主人の顔はよく覚えておりませんが、爆心地近くで、こんなにきれいな死体は他に無かったのではないでしょうか。傍に奥さん、子供、おばあさんの遺体も見当らず、主人に手を合わせてかえりました。

  どこから汽車に乗ったのか覚えておりませんが、満員の列車内で、私の体を見て皆吃驚され、同情的で原爆の様子を聞かれましたが、そこではじめておにぎりか御飯をご馳走になり美味しかったことも忘れられない思い出です。そして車中でソ連の参戦を聞き、私はもうこれで日本は駄目だと思いました。
 原爆で戦争をすれば、もう世界は終りだ。もうこれからは戦争はできないだろう。原爆を直接受けた私は、その日から、このことを確信しました。原爆が落されたら、そこは一瞬にして地獄と化する。皆地獄は見たこと無いのに、釜ゆでの周りを人間が裸で夢遊病者の様にウロウロする光景を、絵で見、想像する事がありますが、現実の世界が、それと同じ姿に一変してしまうのです。
 汽車で佐賀まで行ったら、久留米駅が空襲でやられて汽車は通れないということで、引返して、佐賀から瀬高町までのジーゼルカーに乗り替え、広々とした筑後川下流をはじめて見ました。八代駅に着いたら、空襲警報発令で、汽車を降りて退避せよとのこと。倉庫裏に行ったら、そこで小学校時代の同級生で親友の井手武夫君と出会い、吃驚しました。武夫君は大刀洗航空廠から暇を貰って家に帰るところでした。知った人とはじめて出会い、ホッとしました。
 現在甘夏みかんの大産地である田ノ浦の鉄橋が空襲で破壊されて、汽車は通れず、田ノ浦から佐敷駅、さらに次の湯ノ浦駅まで約10km線路を歩きましたが、空トランクは武夫君が持ってくれたので助かりました。鉄橋の上で恐るおそる渡ったり、見通しも真暗で長いトンネルを歩いたりしましたが、ご飯も食べないで、しかも素足でよく歩いたもんだと、今でも不思議に思っております。恐らく4日目の夜は、この線路の旅の何処かで過ごしたものと思っております。

  5日目の夕刻、自分の家の隣駅、鹿児島県出水駅に着きました。早く自分の家へ帰りたいと一心に思っているのに、隣の阿久根が空襲で、汽車はまた出ない。我家を目前にしながら、もう歩く元気はありませんでした。私はやむなくホームに積んである枕木の上で5日目の夜を明かしました。
 翌朝6日目、汽車を待ったが、汽車は出ないということでまた線路伝いに家まで歩くことにしました。ところが後1km半という処で空襲警報発令。仕方なく木蔭に休んでいたら、疲れていたのでそのまま寝てしまい、夕方やっと目を醒まし、うす暗くなってからやっと家に着きました。弟など家の者は皆吃驚しました。途中で水洗いはしたかもしれませんが、汚れて素足で、恐らく痩せて見る影は無かったのではないかと思います。
 今にして思えば、後1日遅ければ、家までたどり着けなかったのではないかと思います。その時の写真を写しておけばよかったのにと、今頃思うことです。翌日井手君も来ている時に終戦の御詔勅放送でした。原爆を見た私達は、戦争はもう続けられないと思うことでした。翌日から熱が出て苦しい日が続きましたが、バイキン専門の奥田病院で注射をしてから、自然と良くなりました。

  爆心から僅か1kmの地点で被爆していながら比較的早く元気になったのは、爆風や光熱を直接受けず、すぐに空気のきれいな山の上に登り、30kmも離れた肥前長田小学校に収容され、空気のきれいな鹿児島に帰れたからだと思っております。

  以上で、原爆投下の飛行機を真上に見て故郷鹿児島に帰るまでの、6日間の苦闘の記録を終わります。
 『ピカドンではなかった』と出題したのは私達爆心から1,000m以内の被爆者はピカッとマグネシウム写真の何千倍という光熱のみが頭に残りドンという爆発音は覚えておりません。B29が屋根の上をユーユーと飛んで行きましたが屋根スレスレで高度500〜600mではなかったのでは無いかと思います。このことは市内に目撃者は多数おられると思いますので確認して下さい。
(2010年追記)