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長崎の声

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甲斐豊さん 直接被爆・距離1km(大橋)
被爆時20歳 / 鹿児島県出水市9948

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は爆心地から1キロの地点にある三菱兵器魚雷工場で頭の上を悠々と飛んでいるB29 を、あれは日本の飛行機だろう、私は忙しいからと二重壁の室内で被爆しました。

 世間がマグネシウムの何百倍という明るさと火の中に投げこまれた様な熱気で目の前に 爆弾が落ちたんだと思ってはね起きて見ると、100mも続く工場の屋根がグシャグシャに折れ曲り市街地は火の海でした。私も腕、頭等2〜3ヶ所ケガはしましたが、足が元気で山の 上迄逃げ、夕方はトンネル工場のトンネル内で一夜を過しました。
 トンネル工場近くには鉄道沿線に1000人ぐらいのケガ人がおりましたが、血で作った人形の様な人、皮の垂れ下った人達と30キロ先の肥前長田小学校の教室で第二夜を送りまし た。

 朝方一緒にいたケガの人が死んでいた人が7〜8人おりましたので、私は鹿児島に帰るこ とにしました。帰る前に爆心地から500mの岡町の下宿に立ち寄り防空壕の中から空のト ランクを下げて友人の力を借り、終戦前日の8月14日うす暗い夕方、素足で鹿児島の実家 に帰ることができました。
(2005年)

  私は満20才で長崎市三菱兵器製作所で被爆しまして余名幾何もなく現在84才です。私が高尾野町郷土誌に書いた体験記を日本被団協に送ろうかと考えておりましたところ良い機会におしらせを貰いましたのでコピーしてお送りします。

  「ピカドン」ではなかった
 −長崎原爆の直接体験記−

  原爆投下直前の飛行機を真上に見て
 被爆第一日目
 長崎に原子爆弾を投下した飛行機B29のことを、私はこの眼で見て今でもはっきりと覚えているのだが、あの飛行機を見た人が、今果して何人生きているのだろうか。見た人は沢山いたでしょうが、その見た人達は、その飛行機に見とれたまま、爆風と光熱を直接受けてほとんど死んでしまったのではないでしょうか。あれから50年近くなって、ふとこんな回想(おもい)に駆られることが多くなりました。これまで私がこの事をくわしく書こうとしなかったのは、当時のことを自分から外に発表したくなかった被爆者心理のせいかもしれません。私は今こそ、48年前の事を思い出しながら書いてみます。

  それは昭和20年8月9日午前11時2分、原爆炸裂の5秒前の事である。その日も真夏の暑い暑い日でした。サイレンの合図で空襲警報も解除になり、約2Km先の住吉トンネル工場に避難していた女挺身隊、女子報国隊の人達が、駈足でエッサエッサと帰りついて仕事に就いた時の事でした。
 私が工場裏の出入口の傍を通りかかると、すぐ外で、昼食当番の女の人達が3〜4人で「飛行機が飛んでるよ」と呼びかけるので、私も外に出て上を眺めると、真上を大きな飛行機が一機、銀翼を輝かせながら悠々と飛んでいる。さして大きな音も無く静かな感じで、高度600mぐらいでしょうか、晴れた夏の暑い日ではあるが、気持良さそうで、私は少し羨ましさも感じた。空襲警報も解除になって、サイレンも鳴らないし、2か月ぐらい前の夜間空襲に、花火の様に打ちまくった高射砲も一発も鳴らないし、静かなひと時でした。
 当時私は技手の職種で、人を使い人を働かせる立場にありました。それで、ゆっくり飛行機の行方を追ったり、立話をする時間も無いので、「あれは友軍機だろう」と捨ておいて、工場内まで5〜6歩、工場に入ってから7〜8歩、丁度2階の詰所へ上がる階段の手前だったと思いますが、その時です。

 一瞬、目の前が真赤というか、目の前だけでなく世間全部が白色がかった真赤で、熱気さえも感じたので、多分目の前に爆弾が落ちたんだと思いました。一般の人はマグネシウム写真で吃驚(びっくり)しますが、あの何千倍と言いましょうか、私は製鉄所の溶鉱炉の中に投げこまれた感じも想像しました。気がついたら、私はコンクリートの床にうつぶせになっていました。背中の上に木や板切れが負いかぶさっていましたが、一人で立ち上ることができました。
 幸い私が居た場所が、工具室のコンクリート壁と階段とかぎの手になった所で、直接爆風と光熱を受けなかったので、そんなに飛ばされず火傷も無かったのです。私が原爆を受けた 地点は、航空機魚雷の全国の8割を生産している、三菱兵器長崎製作所(現在の長崎大学)の治工具工場内でした。正門から入って爆心地に最も近い位置で、爆心から約1km、原爆投下を知る大部分の人は「ピカッドン」という言葉で表わしますが、私が覚えているのは光りと音が全く同時で、むしろ音の記憶は、はっきりとは残っておりません。

  私は爆風と光熱を直接受けず、身体に負いかぶさった破片も少なく、意識もすぐ戻ったので助かりました。だが工場の従業員の半数は、下敷きになり火に包まれて、死んでしまったのではないかと思います。今にして思い出しますが、私に飛行機を教えてくれた給食当番の人達は、工場の外側で、直接爆風と光熱をまともに受けたので、爆風で工場の壁にたたきつけられ、何千度という光熱で、一瞬にして昇天したものと想像しております。この人達と同じ様に外で飛行機を見た人達は、恐ろしいと避難した人はほとんど無く、そのまま一瞬に死んでしまったのです。私の様に仕事の為に避難した人は少なく、たとえ避難しても傷ついて、現在まで生きているのは、いないのではないかと思います。
 私はこのことに今やっと気付いて、飛行機を見た証人として、当時の事を思い起こし、できるだけくわしく書いてみます。原爆が炸裂した時、コンクリート壁と階段の角っこに居たので爆風と光熱を直接受けず、しかも上から落ちて来る2階の品物や屋根の破片は私の上を飛越えて、私の上に負いかぶさったのは極少なく、意識がすぐ戻り、助かりましたが、1km地点の被爆者では一番軽く幸運であったと思っております。

 それでも右腕に5cmの傷、鼻の下が口の中まで突き通った傷、左腕は刺青の入った様な打撲傷、頭に2か所の傷で血は流れまかせでしたので、シャツからズボンまで血に染まりました。工場の正面出口まで近く、20歩ぐらいでしたので、破片を乗り越えて大通りの通路まで出ましたが、70mも続く目の前の鋸型の機械工場の鉄骨が、全部飴の様にグシャグシャ に折曲がり無残に垂れ下っているので、私は咄嗟に、あっこれは3日前に広島に落とされた新型爆弾だ、と直感しました(この三菱兵器、機械工場の倒壊した写真は原爆資料館にあります)。
 そして爆心地方向の岡町、浦上方面を見ると、市内一面真赤に燃え上り、恐らくあの火の下にいる人は一人も助かるまいと思いました。私達の工場は街外れで田圃(たんぼ)の中にあり、新しく近代的な鉄骨作りで落ちて来るものが少なく、火の廻りが遅いので命からがら逃げ出せましたが、市内の木造住宅は密集していて、それが爆風で木端微塵に破壊され、道路も逃げ場も木屑の山で、しかも一瞬に全部に火が着くので、動ける者も、動けないものも、苦しみもがいて焼け死んでしまったのです。

  街の火を見てしばらくすると、もうもうと煙の立籠める工場のあちこちから三三五々、人が道路に出て来ましたが、皆知っているはずの顔が頭から流れる血に染まって見分けがつかず、中には腸(はらわた)を引き摺っている人もありました。一人だけ顔見知りの報国隊の女学生が、「小父さん助けて」と言った事を覚えておりますが、その時私は板についた釘が私の足に深く突き刺さってなかなか取れず、そのまま、分からなくなってしまいました。
 言葉を聞いたのはそれだけで、皆が大通りを正門出口に向って並んで無意識に歩いて行きますが走るでなく、言葉を交す者もなく、ただ黙々と亡者の列みたいでした。それはまるで、地獄に落ちて釜ゆでに向う光景の様でした。

 正門を出るとすぐ左手は田圃でした。畦道を皆一列に並び、追越して急ごうとする者もなくただ静かに黙々と、山の方向に進みました。やがて山道に入り、途中防空壕らしい穴があれば、早い人からお尻の出るまで詰め込み、入れない人は山道を上へ上へと並んで行きました。途中左手を見ると、竹山が櫛でなでた様に並んで倒れ、山の一軒屋が盛んに燃えておりました。こんな山の中まで燃えて、日本中どうなってしまったんだろうとも思いました。
 私の怪我は軽い方でしたので、行けるだけ行けと思って頂上近く登って見ると、そこは市内が一望に見え、県庁から稲佐方面まで見渡せる所でしたが、市内全部が火の海で、これでこの世は終りだと思いました。昔ローマが火に包まれて崩壊したことを聞きましたが、今の長崎を思い比べることでした。

  それから一人何時間座っていたのか覚えておりません。気が付くと夕方の様で、暗く なって動く元気もなく途方にくれておりましたら、私と同じ治工具工場で親しかった久木元貞治さんが、側を自転車で通りかかり、私に気付いて声をかけて下さいました。久木元さんは現在住吉トンネル工場勤務で、稲佐山の自宅まで自転車で行かれる予定でしたが、私を見かねて荷台付きの大きな自転車に乗せて、住吉トンネルまで送って下さいました。