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長崎の声

小寺敏勝さん 直接被爆・距離1km(三菱鉄工所)
被爆時17歳 / 奈良県卸所市11161

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 六拾五年余りすぎたあの長崎の町。忘れ様と思っても思い出します。佐世保海兵団で雨訓練の後大村航空隊に勤務しました。B29の攻撃で飛行場は穴だらけ、多くの兵隊が死にました。飛行機も特攻隊で出発し機体は使いものにならないのがあり十九年の終りにはかずが知れて居ました。B29とグラマンの定期便が続きました。

 二十年三月長崎製鋼所に転勤になりました。長崎は空爆も無く安心な町でした。二十年八月九日初めて空襲警報のサイレンがなり三十分位で解除になり、会社のボイラ室に行き水を補給しました。同年兵の西と話し合っていましたその時ものすごい光を見たのと体が飛びました。工場の下敷になつて居ました。何とか外に出る事が出来ましたが、それから私の生への戦が始まりました。
 旭橋のたもとに立って居ました。どうなったのだろう一人も人が見えない家もない。なんと言う事だろう夢かと思いました。川の中の同年兵六人に助けられました。これが人間の顔だろうか。ズボンの下迄やけどでした。かたを貸して呉れて川を上流に進みやっと陸に上りました。稲佐町の兵舎はすぐです。しかし私は動けません。先にいって呉れあとから行くと言って別れました。十四日に兵舎を通ると六人皆死んで居ました。別れてからの私は口で言えない苦みを受けました。人の声で元気を出し、たどりつくとまるで生地獄でした。泣き騒ぐ人助けて、なんとかして医者はまだか。三十名程の女の人と子供三人位の人数が百坪ほどのところにころがって居ます。九日晩から十四日朝迄全員死亡し私は駄目とかくごして居た。朝十時頃助けられました。六日間水も食べる物も無く太陽に照りつけられ生きる事が出来ました。

  長崎の駅に運ばれ、目の前の死体の山を見ました。駅前に何ヶ所もつんであります。一時間毎に列車が出て居ます。諫早海軍病院に四時頃運れました。足のふみ入れ様も無い有様です。口がふさがり腹にはウジがわいて居ます。六時頃少しでも動ける者集合、なんだろうと思い行って見るとこれ以上何も出来ない。二ヶ月休暇をやる。郷里にかえって養生しろ。旅費はどうするですか。自分で何とかしろ。古い入院者から拾銭五銭ともらって一円五十銭位出来切符を手に入れ鹿児島出身と四人組んで汽車十時に出発しました。十四日から十七日迄つらい思いをしました。私は広島の母と妹を亡くしました。長崎と同じなら生きていないのでしょう。運命とは言い乍ら一人で生きねばなりません。ボロボロの服、一銭の金もなく十八才で良くここ迄生きて来たと思います。戦争はしてなりません。尊い命を大切にして世界の平和を祈りましょ。いろんな事が色々ありましたが終らして頂きます。

被爆地 長崎市三菱製鋼所、爆心地から1,000米。海軍工作上等兵。
(2010年)