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長崎の声

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森フサエさん 直接被爆・距離1.8km(本原)
被爆時12歳 / 長崎県長崎市1571

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 被爆時中学1年生、学校の宿題が松根油集め。そのため松の木にのこぎりできずをつけ、 かんの中に松の液を入れようと作業していた時にすごく光り、炎が下から上へはい上がっ てきた。とっさに伏せたが背中の洋服が茶色に変色していた。下草は燃えたが幸い木がも えなかったので六枚板の教会の方へ逃げた。六枚板の教会の防空壕の中で一晩すごし、朝早く西山越えで蛍茶屋に出てガラス破片の中を電車線路伝いに大浦石橋の家まではだしで帰った。(いつはだしになっていたのか知らなかった)
 途中で乳房のとれた人、背中が黒く焼けた人等を見たがなんとも感じなかった。恐怖心も なかった。途中びらやまっ黒い油がいもの葉に降っているのを見た。アメリカの飛行機が 飛んできたので何回もさつまいも畠やみぞの中にかくれた。死ぬとか恐いとかの気持ちは なかった。

  家についたのは夕方。家は見るかげもなくタンスもたおれガラスもなくなりかべ土で足 のふみ場もなかった。誰もいないので山の方にある防空ごうまで歩いていった。父は私を さがしに昨日から出ていて居なくて母と弟が壕の中に居た。長崎にいては危ないと言うの で母と私と弟で南高加津佐まで行くことになった。私だけが歩けず母に叱られながら下痢 をしながら歯ぐきから血を出しながらおくれて歩いた。とうとうおくれてしまって諫早に 着くのが朝方だった。当時列をなして諫早まで疎開する人が歩いていた。夕方出発して夜 の間に伝(つて)を頼って歩き日が登ると歩くのを止めるか、かくれるか、列車(島原鉄道) を待つかだったと思う。私達は島鉄に乗ったが敵の機銃掃射に会い島原湊という所でおろ された。線路伝いに歩いて安中で又汽車に乗り加津佐駅に着いた。敵の機銃掃射は雨のご とく降り、駅には逃げまどう人、かくれる人たちで混雑した。私のすぐそばに指大のたま がころがっていた。母と弟は物かげにかくれたが、私は動きがおそく駅の広場にいて、あ らしの如き銃の弾を見た。死ぬのを覚悟したが恐怖はなかった。

  どうにかこうにか加津佐の祖母宅にたどりついた。祖母が鯉の生き血を私に飲ませてくれたので少し血色が出た。何度か下痢、抜毛、歯ぐき出血があったがどうにか元気になっていった。
(2010年修正)