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長崎の声

西川政見さん 直接被爆・距離1.5km(文教)
被爆時17歳 / 長崎県長崎市3420

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 1945年8月9日(晴天)午前10時半頃空襲警報が解除され山近くの防空壕から引き 上げてさあ仕事をやろうかと兵器製作所の厚生課の製米所の4人が声を掛け合って 始めました。すると間もなく空襲警報のサイレンが鳴り響きました。皆アッケにとられま した。先ほど解除になったばかりなのに・・・。そうこうするうちに私は爆音を耳にしまし た。確かに爆撃機の音にちがいないと思い、爆音が近づくことを確信し、窓から外の様子 を眺めました。(私たちの仕事場の前は道路一つはさんで三菱重工長崎造船所の船型試験 場でした。今も当時の骨組みをもとに屋根を布いているようです。)
 (11時2分)その時目がつぶされそうな閃光が走りました。その後腹をゆさぶるような ドーンと大音響が一面に木霊しました。何秒かのことが長く感じました。嵐が去ったと言い ますか、我に返り、あたりを見渡してびっくり。上空に張られた高圧線はズタズタに切れ てぶら下がり、近くの兵器製作所の鉄骨に張られた屋根板(ブリキ板)はほとんどはぎ取 られ、あまりの広範囲の被害にただ唖然と時を過ごしたようでした。道路は飛び散った各 種の破片だらけ。焼けただれた衣服をまとった多くの被災者が逃げまどっていました。

  私の仕事場は前日米の「もみ」が俵(米俵)につめられ、うず高く積まれていました。(前日の昼は全くなし)四角すいの構造の製米所であったので、生命をとりとめたと思っています。 全部の柱が横板をつけたまま、米俵に乗っかったのです。私は光と同時に指導された通り、 耳穴を指でふさぎ、口をあけ、床に伏せていたのです。皆、学校に帰ろうと話し合い歩き始めました。私はあまりのやけどの痛さに皆と別行動を取り近くを流れる浦川上の河原(川)原に(少し水が流れていた)に顔を冷やしに行きました。
 そこには草を食べさせる為につながれた牛がいた。私を飼い主と勘ちがいしてか私の行くところについてくるのです。(ロープが焼け全身焼けただれ身をぶるぶるふるわせていました) 私はついに顔を水につけることが出来ず学校へ行き指示された通り長与町に仲間と避難しました。途中民家の人から焼けた顔にひまし油をつけてもらいひりひりの痛みはやわらぎました。今でも親切さは忘れません。小学校体育館で一夜を過ごしましたが治療など何もできないので自宅に帰れる人は帰ってよいとのことで、30劼阿蕕い瞭擦鯆綮,垢訶┻,鬚気韻撞△蠅泙靴拭E喘翅燭の人が防空壕で水をくださいと泣き叫んでいました。あちこちに死体もころんでいました。その後はアロエでやけどの治療は完治しました。当時の同僚の人は原爆症の影響か4、50代でなくなったようです。……三菱兵器製作所の正門 付近では被災者が早足で逃げているのを見たり、軍属将校たちが戦争は今からぞと怒鳴り散 らしている姿が、当時の軍国主義(全体主ギ)のこわさが頭から離れません。
(2005年)

  被爆地 長崎・爆心地より1.5km 当時は長崎市家野町、現在は文教町。
(2010年追記)