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長崎の声

平洋さん 直接被爆・距離1.1km(大橋)
被爆時17歳 / 長崎県諌早市1133

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 旧住所長崎県北高来郡小長井村小川原浦名1986
 昭和19年3月20日長崎市大橋町三菱長崎兵器製作所に入社して、魚雷の製作をして いた所、20年8月9日午前11時2分に原爆投下にあい、1事は爆風で気を失い思い付い た時は、一面火の海であったが幸いに1命を取り留める事が出来た。外に出て見ると山、 家、線路の枕木迄一面火の海であったが見知らぬ人と二、三名で道の駅の方向へ小さい山 道や畑道を通りやっと夕方の5時頃に駅が見えたので、ホッと1安心する事が出来た。駅 にきて見ると、汽車に乗車出来る者は、元気な人は乗れない事がわかり、私は左手から腰の 方までケガをしていたので乗る事が出来、諫早駅で下車して昔の海軍病院で今は諫早総合病 院で手当をして小長井駅に着いたのが、午後8時頃だったと思います。大橋の現場から道 ノ尾駅迄に何百名ともいえる人とあったが、元気な人は何名か見ただけで助けてやる事も 出来ず、今でも当事の事を思い出して、自分はなんとか病院には入院又退院を何回もして 60年長生きすることが出来ました。此後も後何年ぐらい此の世に居ることが出来るの かわからないが、夫婦2人で暮して行きます。私には、女の子供5名おりますが、幸にも 町内2名ほか3名も約8K以内におりますので、毎日だれか食事の用意をしてくれますの で、大変ありがたく思っており、又1ヶ月に1回ぐらいは全部集ってくれるので幸せです。

  原爆の話しについてはあの当事の事を思い出すと、今だに他人に話す気にはなりません。
 被爆した人にしか、わかりません。今後世界中が安心して暮すことの出来る用にして平和 であることをお祈り致します。
(2005年)

  結婚式は、自分が23才で、壽美子が20才で結婚をして、自分は現在82才になり、妻壽 美子は79才をもって、平成21年8月24日午後6時6分に、病院にて死亡致しました。一緒になって、59年間の内、約12年間は入院、退院をくりかえしてきましたが、子供が近くにいるので、大変親孝行をしてくれて、本当に有難く思っていますが、後1、2年でも、いてくれたらと、毎日1日に3、4回仏前に参り写真と向いあって、話をしています。先月2月長女の長男の結納をして、早速4女の夫が大工なので、今設計をして、出来次第に、自分いる土地新築をして、私も1緒に暮す事に決定致しましたので、10月の結婚式には出来上がると思って、自分も元気が出てきました。7日間の内に3日間はデイサービスに行っていますが、これからも、1日、1日を大事に、していきたいと思います。
 さて、きょうの歴史を見て見たいと思います、此の手紙を書いたのが、(3月10日水) 1974年昭和49年、小野田寛郎さん救出、フィリピンルバング島の、ジャングルに潜伏していた、小野田寛郎元少尉は元上官の任務解除命令をうけて、下山し日本政府の現地本部に到着した。(2日後30年ぶりに帰国した)
 県内1917年(大正6年)魚雷製造開始、国内唯一の民間魚雷製作所として、長崎市浦上地区に、三菱長崎兵器製作所を開設、作業の一部を開始したが、昭和20年8月9日午前11時02分に原爆投下により、後片もなく無残な、18年間でした。
 昨年3月13日と7月17日に昭和19年3月16日より、20年8月2日迄の厚生年金の支給を申請をし約1年2ヶ月後に受取る事が、約64年ぶりに出来た事に大変喜んでいます。

 今後は、自分には孫16名いて、全部元気でいるので、安心です。いろ、いろと、たくさん書く事ありますが、このあたりで失礼致します。全日本国民が、平和な生活が、出来るようにこれからもおいのりをして失礼をします。戦後65年長息を来ましたが此からも、体に気をつけていきたいと思います。
(2010年追記)