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長崎の声

小玉輝幸さん 直接被爆・距離1.2km(大橋)
被爆時14歳 / 長崎県南島原市2164

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 1.原爆被爆者は外に出す事は出来ない、然し、人間生き方は色々、職業柄、世界を相手に38年間を通した者である。国々には国民が居る。世界各国考え方は別々に生きて来て居る。
 世界を民主化しようと大国もある。9.11事件位はなんだと思う。此の世を去った者 は3000人位である。戦争で命をなくした者は数知れず米国の考えのみでイラク戦争 も始まり、今になって米国も反省して居る様に見える。
 2.原爆被害の責任はどこにあるかと言う尋ねに付いて日本の軍国主義から始まった 事かも知れない。日本も戦争好きな国だった事が伺える。内容は軍国主義の国からか も知れない。今は違う。無条件降伏した国だから仕方ない…。戦争だからと言っ て原子爆弾を投降した米国にも責任はある。原子爆弾の内容は解って居たと思う。怖 い原子爆弾と解って使用した事は戦争と言う2字の内容と思うー。戦争はもういやー だー。
 3.米国民は原爆を使用した事で戦争犠牲が少なく戦争も早々終戦を迎えたと言う国 かも知れない。其の言葉は戦争に勝ったから言える言葉であって無責任な言葉の様に 思える。私は原爆に合った者の一人として人に隠す事なく、俺は戦争犠牲者として今 后も戦争と原爆の事に付いて伝えて行く事とする。
(2005年)

  被爆60年目から5年が立ち被爆者は色々な病名に悔されつつ生きて居る。私に取っては、 昭和20年8月9日、あの日さえ無かったら、と思いの繰返で過ぎた65年間である。5年 間の間には薬を呑みつづけたが薬の効果は無く平成19年3月23日心臓手術を長崎大 学医学心臓血管外科主治医多田先生、他4名、今の医学の進歩には頭が下る。病院の力で 命は、つながって居る。被爆者の中には私だけではなく私の様な被爆者おられるであろう。 長崎・広島で、被爆者が、訴えた言葉が、ようやく実り始め、世界的にも核廃絶の声が広 まり、米国でもブッシュ政権より、オバマ大統領政権と変り、大統領の口からも核廃絶 の声も出ており、核廃絶の日が実行に移される日を待たい―
 被爆を実感した者でさえ、本当の声は出せない。苦しみ乍がら生て居る65年間である。 争いの無い地球であって欲しい。一人の被爆者の願い。
 最後に一言。私は職業柄アメリカの港に良く行った。始めの港で移民官の顔見せが行な われる。其の時の移民官が長崎生れとの事で、原爆に合わなかったかと移民官が尋ねると 上司が通訳して下さった。次に移民官が、アメリカをどう思うと言って居ると伝えられた ので、唯だ一言で「憎と告げた」所ろ、移民官はアイム・ソリーと言れた言葉は今だに忘れられず一綴を添えた(移民官の心を察する)。

長崎で被爆 爆心地より1.2km−三菱兵器製作所大橋工場
(2010年追記)