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長崎の声

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豊田嘉幸さん 直接被爆・距離1.3km(大橋)
被爆時17歳 / 東京都足立区5563

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 当時長崎師範学校の学生で三菱兵器製作所大橋工場に動員されていた。私の職場は検査課。出来上がってくる魚型水雷の水圧試験、重量試験などを行なうところである。6月23日 (1945)沖縄が陥落して以後、九州地方は米軍機の跳梁するところとなり、工場は空 襲警報、警戒警報になやまされ兵器の生産量はガタ落ちし、ふえたのは妙な虚脱感であっ た。私達はただ黙々と工場に通い、検査台を清掃し検査器具を磨いたりする日常を繰返し ていた。

 8月9日の朝も気だるい暑さの中、上半身裸のまゝいつものようにせっせと検査 器具をなんどもなんども磨いていたが、昼食も期待して大時計をながめたら11時を指して いた。手を休めて立ち上がり長針を見つめていたら、背中に強い風圧を感じ、コンクリート の床にたゝきつけられた。意識がもどり、私が立ち上がったとき、私の眼前にあったのは、 地獄そのものの様相であった。

  浦上の高台の避難地から午后4時頃私は一番列車で大村海軍病院に運ばれた。8時半頃衛生兵長の腕章ををつけた1人が言った。「諸君は帝国陸海軍の貴重な犠牲者である。避難地では充分な水も与えられなかっただろう。諸君の苦労にむくいるため、今きれいな水を用意した。存分にのんでいただきたい」。私もジョッキ一杯の水をのんだ。5人つめこんだベッドからザワついた。ウマイという声がきこえた。間もなく消灯され私は眠った。

 翌朝3時半頃目がさめた。病棟は静かだった。私はカンゴフサ ンと大声で呼んだ。「スミマセン。お腹がすいた。何かありませんか」。私が言うと、かけ つけた看護フは「エ、食べるの、あるわ。おかゆが。あっよかった。すぐもってくるよ」。 私はおかゆをおかわりした。「ありがとう。おいしかった。カンゴフさん、みんなもう退院 しちゃったんですか」。カンゴフさんは首をふった。「みんな外のトラックにいるのよ。末 期の水をのんでね。あなたは助かった。私うれしい」
(2005年)