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長崎の声

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利根川シヅエさん 直接被爆・距離0.7km(坂本)
被爆時19歳 / 和歌山県橋本市6124

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 1945年8月9日(原爆投下日)。
  私が18才の時、諫早市に住んでいました。
  8月10日に坂本町に住む従兄弟(当時17才)は、学徒動員で鹿児島県鹿屋市にある航空隊へ出向する事が決まり、送別会のために坂本町にきていました。
  親族が送別会の買出しで外出したので、その間、私は、近くに住む友人の家に向かっていた。

 空襲警報は、午前10時30分ごろ、解除になっていたので、安心していた。 その時、私の近くにいた警防団が西の空から2機の飛行機が飛んで来るのを見つけ「B― 29が来た。早く逃げろ。命が亡くなるぞ」と叫んでいた。 この付近には、防空壕が五つ並んでいた。
  しかし、私は、諫早市の住人なので、防空壕に避難するのを遠慮していた。その時、50歳 くらいの警防団の方が私を防空壕に押し込むように入れてくれた。その瞬間、目がくらむ ような光線が見えたと同時に、爆風で気を失いました。

  気が付いたのは、午後五時ごろだった。体は、鉛の扉の下敷きになっていて、身動きがとれず、唸っていたところを「誰か生きている?」と叫びながら身内を捜しに来た見知らぬ親子が身動きできない私を助けてくれた。立ち上がった時には、防空壕に避難していた人は、全員死亡しており、その死体は、皮膚が黒こげ腫れあがった死体や得体の知れない肉の塊に変化し、男女の区別も判らないようになっていた。私を防空壕にいれてくれた警防団の方も変わり果てた姿になっていた。

 周りは、火の海で黒く焦げ硬直した死体が幾重にも重なっていた。逃げるには、焦げた死体の上を踏み鼻を突くような悪臭の中を走り、坂本町の外人墓地まで逃げた。その後は、私は、原爆が投下された事、従兄弟とその妹は、家の下敷きになり焼死、身内27人の死亡を知る事になる。私は、髪の毛が全部抜け落ち、血便で苦しみ、50キログラム近くあった体重が32キログラムまで減少した。

  あっという間の出来事が60年たった今でも鮮明に覚えているし、思い出しては涙する 日々。被爆者の生存者が減ってきている現在、戦争は、人間が起こし大勢の人を殺し、家を焼き全てを奪い、身も心もボロボロにする。
 被害にあった人のみが知る悲しみ。
 震災は、避けられないが戦争は、回避することが出来るのです。
 戦争がおこらないように願ってます。
(2005年)