english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

長崎の声

この声の英語ページへ

西山進さん 直接被爆・距離3.5km(飽の浦)
被爆時17歳 / 福岡県福岡市南区8242

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 馬が大きな目をむいてがれきの中から首を出していました。そのそばにお母さんらしい人 と子どもの遺体が真黒こげでありました。歩いていたのかもしれません。足の裏は焼けつ くようでした。子どもの死体がまるでかくれんぼでもしているように目をおおって転がっ ていました。もう書きつくせないほどの死体の数、さっきまで生きていた人たちが一瞬の 間に、ちりぢりばらばら、なんでこんなことになるまで戦争を続けたのでしょう。死んだ 人の怨みがうごめいているような広島、長崎をいつも感じています。

 しかし、最近の日本 はまだ戦争する国になっていくようでなりません。国会議員もマスコミもどうか目をふさ がないで、私たちの国がアジアの人たち、世界の人たちと仲よく、平和をめざすよう動い てくれませんか。過去の歴史にフタをしてはなりません。
(2005年)

     語り継ぐ被爆体験
 私の少年時代は戦争漬けの時代でした。日本の国はサムライの時代が終わって、明治時代になると、富国強兵が国の政治の大きな目標になりました。強い軍隊をもってアジアの国々を家来にして国を豊かにするという方向でした。

 そのために狙いをアジアに定めて、軍事力にものを言わせて、力ずくで抑えようと考えていました。すでに、他国侵略は豊臣秀吉の朝鮮征伐がありましたが、明治になって最初にあったのは1874年、台湾出兵、そして1894年日清戦争、いまの中国との戦争。それが終わると、1904年中国の東北部の権益を争ってロシアと戦争しました。そのあと1937年日中戦争、1941年太平洋戦争、1945年、終戦の詔勅。
 私が生まれたのは1928年ですから、まさに少年時代は戦争づけの時代でした。

 戦争は、地震や台風のような天災ではありません。それは人間がおこすものです。そして戦争は、突発的突におこるものではありません。それには周到な準備が必要で、戦争を進めるものは戦争しやすい環境を整えていきます。
 日本で行われたのは、教育でした。それは軍国主義教育でした。軍国主義というのは、政治、経済、文化のあらゆる面で全国民を侵略戦争に動員する体制とイデオロギーをつくる体制です。軍事国家、すなわち武力をもって他国を支配するという考えです。

 どういう形だったかというと、小学校に入ると、教育勅語という教育の基本になる天皇の言葉を徹底的に教え込まれました。その教育勅語は「チンオモウニ」という言葉で始まり、「チンオモウニ、ワガコウソコウソウクニヲハジムルコトコウエンニ」と天皇が支配するということを明記していました。そのなかに「イッタンカンキュウアレバ、ギユウコウニホウジ」とありました。
 これは「いったん事が起こったら、身を投げ出して国に尽くしなさいと」いう教えでした。至極当然と思われますが、「国に尽くす」、その国が問題でした。
 そのころの憲法には、「万世一系の天皇がこれを統治する」とあり、天皇は神様、神様の行う戦争は「聖戦」いわゆる正しい戦争、そしてその天皇のために死ぬことは、立派なこと。そういう教育を子供の時から徹底的に教え込まれました。今でいうマインドコントロールですね。
 未だにその呪縛から解放されないで、社会生活のいろいろなところで、間違った判断を重ねています。

 さて、そのような時代でしたから、少年たちは小学校を卒業するとお国のために命をささげることになんのためらいもなく社会に出て行きました。とにかく絵本やおもちゃにも、「天皇陛下のためならば、なんで命が惜しかろう」という歌まで流行った時代でした。
 こうして、国のため、すなわち天皇のため命を投げ出すことになんの抵抗もなく死ねる人間が出来上がったわけです。
 軍隊では「生きて虜囚の辱めを受けず」という思想を徹底的に教え込まれ、高学年になると、私たちの軍事教練が正課に入れられていました。
 当時の少年たちの進路は、進学、家業を継ぐもの、主に農業ですが、軍需工場に就職する者、少年兵をめざすもの、そして、満蒙開拓団義勇軍として中国東北部で農業をしながら、ロシアとの国境警備の任務に就く者などがありました。

 私は、1942年、アメリカと戦争を始めた翌年3月に、長崎にある三菱長崎造船所に少年工として就職しました。学科と実習を重ねて、造船技師になるというはずでした。
 本来は芸術を志していたのですが、ぜいたくは敵だ、男女が愛し合うことは「ふしだら」な行為とみられ、男女の青年が一緒に歩いていることさえも、警察官に「この非常時に」と激しく注意されていました。
 1941年ハワイ、オアフ島奇襲攻撃は大勝利で、続いて東南アジアに侵攻し、1942年の夏ごろまでは、戦争は連戦連勝で「勝った勝った」と浮かれていました。

 しかし、夢と希望を抱いて、入った造船所はつらい辛い毎日でした。軍国主義の世の中は、「戦争に反対したり、戦争を嫌がったりすると」すぐ警察や憲兵に捕まるという時代ですから。上の者に絶対服従です。言論の自由も、行動の自由もありません。それに加えて弱い者に対する「いじめ」です。
 とにかく目上の者や、上級者には絶対服従です。挨拶が悪いと言っては殴られ、にらんだと言っては殴られ、本当にびくびくしながらの暗い毎日でした。
 当時の暴力は死に至っても隠されて処理されました。また暴力も「手加減」が分かっていたので、死にいたる前に辞めていました。
 現在は手加減の人の痛みも、命の尊さもわかりませんから、容易に殺されてしまいます。嘆かわしい時代です。

 1942年勝った勝ったの戦争も、その年の8月、アメリカ軍はオーストラリア近くのソロモン諸島ガナルカナル島に上陸し、反撃を開始しました。
 日本は石油も鉄も外国に依存していた国です。たちまち弾薬や食糧の補給ができず次々と日本軍は各地で全滅していきました。大半は飢え死にだったといわれています。
 国内でもそうです。食べるものがなくなり、生活物資が亡くなりました。本当に着るものから学用品まで配給制になりました。運動靴もクラスに一足割り当てで、くじ引きです。それもなくなり農村では通学に下駄や藁草履をはきました。

 「ほしがりません勝つまでは」や「ぜいたくは敵だ」という標語が街に氾濫しました。
 造船所でいちばんつらかったのは空腹でしたね。それでなくても激しい労働で腹が減るのに、朝夕の食事で食堂に入ると、力の強いものや上級生が自分のどんぶりにご飯をてんこ盛りに押し付けて、下級生の私たちの食べる分を横取りしていました。300人もいる 宿舎でしたから舎監の目も行き届かないし、監督も見て見ぬふりをしていました。
 私は、よくにらみつけていましたが、そうすると夜になると、上級生に呼び出され「ガンつけたな」ともう寄ってたかっての袋叩きで、ぼこぼこになってゆがんだ顔で歯をくいしばっていました。
 戦況は、サイパン島の玉砕。ミッドウェー海戦、連合艦隊の全滅、カミカゼへの期待。

  そんな日を送っていた1945年、8月9日がやってきました。
 ものすごい暑い日で、朝から寮の裏山は蝉しぐれで「今日も暑つかね」と坂道を転げるように、工場に入りました。
 あれは11時頃でした。
 長崎は、普段と変らない一日が始まっていました。町には職場に急ぐ人たち、お昼の買い物に、買い物といっても何もありませんが、子供と連れだって、多くの人たちが歩いています。
 「今日は、いわしの団子でもするかねぇ。母ちゃん、今日も代用食」そんな会話をしていたと思います。