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長崎の声

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堺正親さん 直接被爆・距離2.6km(船津)
被爆時16歳 / 兵庫県西宮市8262

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 存命(ながら)えば 古稀を過ぎたり 弟は
  かの日の被爆 長崎に果つ

  彼は昭和六年十一月三日生まれ。享年十三歳九ヶ月。長崎三菱兵器製作所で被爆した勤労 中学生。私も勤労中学生、動員先は三菱重工であった。先夜、私は夜勤、爆心地より2.6 km南東の自宅で眠っていた。八月九日午前十一時過ぎ轟音と爆風で叩き起こされた。家は 全壊、急いで1km南西の伯父宅に向かう。伯父は留守。無人。家屋は軽度の損傷、泊めて もらえると一安心、伯父宅の井戸水を飲み、自宅に引き返そうとした。500m位の所で私 の足は止まった。行く手は火の海、呆然と立ち竦(すく)んだ。真夏の太陽は何故か黒ずん でいた。原爆投下後30分位経過してたと思う。「家が焼けてるいる」と思った途端、ふと、小学生時代病死した両親(ふたおや)の遺影が瞼に浮かんだ。「大型爆弾か!」「弟の身は…」不安がつのる。

 当時21才の姉は被害軽微な旧市立博物館に居た。博物館は陸軍に接収されタイピストの仕事をしていた。無事な姉の顔をみた時涙がこぼれた。乾パンをもらって食べた。伯父の家を再訪。延焼で焼失、伯父一家の安否が気になった。前述の姉の勤務先に身を寄せ休んだ。夕方オニギリを頂いた。今でもその味と有難さを憶えている。弟の無事を祈りつつ倉庫で寝た。夜明けが待ち通しかった。

  十日、目覚めるとすぐ弟探しに爆心地方面に向う。我が家の焼跡を見た。姉愛用のミシン鉄部のみがポツンとあった。鍋、煉瓦の流し台…他に何もない。「灰燼(カイジン)に帰す」とはこの事か……。長崎駅から爆心地、浦上のずっと向うまで一望できた。惨状から「新型爆弾」だと思った。新型爆弾については、七日夜、義兄が私と亡弟に、「広島で…」と話して呉れた。義兄は長崎医大で研修医をしていた。
 目を近くに転ずれば死体累々。負傷者は悲惨、その惨状、筆舌に尽し難し。
 防火用水に、上半身を突っ込み腰部に鉄の水筒。陸軍兵士と思われる死体、焼け残ったトラックの蔭で嬰子(みどりご)を抱く茫然自失の婦人。そんな中、私はひたすら弟を探した。 背格好年恰好が近ければ駆けより、表向きにする。弟(おとうと)ではないと判るとホッと して次を探す。同じ事を数十回した。まわりに私と同様肉親探しをしている人々がいた。妙 に静かで焼けた土の色のみの世界。一色無音の地獄。想像の域をはるかに超えていた。 弟の死を知ったのは十四日の朝、市役所の掲示によってである。負傷した弟は、大村市附近の小学校に運ばれ十三日息絶えたと言う。付添った国防婦人会の人は、涙を浮かべ、こう言って呉れた。「この学生さん、苦しまぎれに姉ちゃん、姉ちゃんと言うので、思って『お父さん・お母さんは』と聞くと、『こまか時(小さい時)亡くなったと…。バッテン姉ちゃんが、おらすけん(姉がいてくれるので…)』    了
(2005年)

  被爆の場所 長崎市舟津町 爆心地より2.6km
弟信親 被爆→搬送され、時津近くでS20.8.14没
(2010年追記)