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長崎の声

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神崎マツエさん 直接被爆(今町)
被爆時16歳 / 長崎県南島原市3171

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は、義姉が今町の産婦人科に入院していたので現在の南島原市から看護のために長崎に 行ったのです。
 兄の自宅は松山町(投下の中心とか)。兄は川波造船所勤務でした。当日は朝姉の用事を 済ませ、松山の自宅に行き色々用事を片付けて(当時の患者は自炊)必要な物を汗びっしょ りで病院に着いて、一息ついた時急に大きな爆音がしたので窓から顔を出したとたんにピカ ッと閃光が……熱いといって両手で顔を押えました。

 同時に姉さん、爆弾が落ちたと叫ぶ と同時に家がグラグラとして柱が落ちてきて、早く早くと姉と言いながら布団を被ってど うして二階から降りたかわかりません。病院の壕で何人かで震えていて、何が起きたのか、 わかりませんでした。やがて兄がきて無事を喜び合いました。私の兄当時二〇才も 三菱造船所の壕にいたと確認してきたと聞き安心しました。兄の話だと自宅周辺見渡す限 り何もないと肩を落していました。兄も色々な思いが去来したのでしょう。

 兄は戦車隊でビルマに一番乗りしたとか……やっと落着いて第一子にも恵まれる矢先の急 変、今更乍ら兄達夫婦の気持を計り知ることが出来ます。
 兄は気持ちを振払うようにとりあえず会社まで行こうと、私と姉は素足で布団を被って大波 止まで行く途中,、黒焦げになった人達、重なり合ってたおれ異臭。私は直視できず体が震 え足が進みません。本当に地獄絵そのものでした。私はあの光景が頭からとれず何年も悩 まされて夜が来るのがいやでした。今思えば兄も、病人の妻、妹も歩くのが精一杯、励まし 庇いながら会社まで着くのは大変だったと思います。

 私も打撲、ガラスの破片が数ヶ所にさゝり、会社のお医者さんに破片を取って頂き一晩会 社の壕で過ごし翌朝姉の実家(三重町)にお世話になり汽車が通うのを待ちました。姉さ んの実家にも大変お世話になりました。
 私はあの恐ろしい記憶を忘れることは出来ないけど話したくなかったのです。

 半世紀がすぎ若い人、高校生の皆さんが全国に向け非核運動で頑張っていられるニュース を見ております。
 私もこゝ一〇年位前から孫達にあの悲惨な状況を伝えております。
 最後に私事ですが、兄妹四人は長崎にいたのですが父と次兄は投下後私達との連絡が取 れず消息を知りたくて二日後入市したのです。三菱に勤務していた兄も実家に帰っていた のですが病名がはっきりしないまま二十二才で亡くなり、長兄(四〇才)、父(五〇才)と失 いました。義姉、次男の兄と全員癌で死亡、被爆していなかったらもう少し長生きできた のではと悔まれます。
 六人中私一人が長生きです。私も五〇代半で目が見えなくなり白内障手術、六〇 代後半で肺癌手術。言ってしまったら病気自慢になります。幸い先生方に恵まれ幸せです。
(2010年書き換え)