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長崎の声

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佐木豪さん 直接被爆・距離2.9km(興善)
被爆時16歳 / 東京都八王子市7299

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 1.比較的に元気だった身体の健康が損なわれ、長い闘病生活を余儀なくされたきっか けは、急性原爆症による障害だったと自覚している。灰色の二十代を送らざるを得 なかった事は深い傷として残っている。

 2.息子が死亡したものとしてその翌日私の遺骨を求めて被爆地を通り抜けた父も、その年 の秋高熱を発し心臓障害を来し気力、体力を急速に失っていった。<

 3.核兵器は逃げようのない悪魔の兵器です。絶対に廃絶しなければならない。一発 でも残して国力の優位性を誇る国があるとすれば、世界の国々は協力してその考えを是正すべきである。現在の核保有国に、どうすればよいのか。

 核の平和利用については更なる研究開発を進め、その計り知れないエネルギーを自然環境を毀すことなく有効活用すべきだと考えます。
(2005年)

    原子野にうごめいた一週間

 被爆当時の場所  長崎市興善町・長崎消防署二階会議室
 当時の住所    長崎市寺町六四番地興福寺和衷寮内
 当時の行動    八月十日深夜消防署員の遺骨を遺族に届けるために浦上の被爆地をはじめて縦断往復、十七日まで浦上の屍体処理状況の調査報告に従事。
 当時の年齢・身分 十六才、県立長崎工業学校四年生

    火焔に追われた八月九日

  学徒動員令により昭和十九年から、長崎三菱造船所に出動していた私は、昭和二十年六月頃、クラス担任の指示で級友数人と共に、警報時のみ、造船所の職場を離れて、長崎消防署(南二.八辧砲乏愿姪僧瓩箸靴涜垉,垢襪茲Δ砲覆蠅泙靴拭それは空襲等で電話の不通や 担当者の不慮の事故等を補う措置だったようです。他の学校(医大、師範、商業、中等学校)からも集まっていた様でした。
 「新型爆弾」で、広島が壊滅的被害を受けたと言うことは八月七日の夜、署員から知らされましたが、実感として遠い世界の事として聞いていたようです。

 八月九日、その日は朝八時過ぎに警戒警報が鳴ったようでした。それで動員中の三菱造船所に出動せず、警報時の勤務地の長崎消防署に出動待機していました。 次第に気温も上がり、特に指示も無いまま署の二階でブラブラしていた十一時頃、突如「ピカッー」ときました。てっきり至近弾が落ちたと思い、そのまま机の下に潜り込みました。その時室内には十五〜六人いたと思います。呆然として窓際にいた仲間の何人かは、続いて襲った地鳴りと、ものすごい風圧による振動によって破砕されたガラスの破片や、落下物によって大怪我をした者もいました。
 と同時に、真っ暗になり何がどうなったのか、見当もつきません。一瞬の静寂と真の闇の中で、自分の鼓動と汗に濡れた皮膚の感触に、生きてるなと思う。と思う間もなく、苦痛のうめき声、「痛いっ」と言う悲鳴の声を聞いたとき、一条の光が射し、もう もうたるホコリを通して辺りが見えてきた。一刻の猶予ももどかしく、机の下を飛び出し、階段を駆け降りる。

 外へ出て驚いた。これは意外!まったく普段と変わらない、至近弾のかけらもみえない。ギラギラと真夏の太陽は容赦なく照りつけ、空はどこまでも青い、ただ、窓ガラスが殆ど吹き飛び、道行く人達が、顔や手足、頚等衣類から出ている部分を押さえながら、救護所の新興善小学校へと走っている姿が異常でした。火傷したり傷を負った人達です。だけど、それが何故そうなったのか、その時は解りません。そのうちに署の中にいた連中もみんな出て来て、お互いの顔を見て大笑い、ホコリ、ススで真っ黒ですから…
 誰云うとなく「新型爆弾か?」と言っているとき、望楼から署長の鋭い声「長崎駅から煙、消防車出動!」続いて「県庁から煙!」と次々に指令が飛ぶ、それ迄の呆然たる雰囲気は、一挙に修羅場の様相に変わる。私にも早速、消防車の配転を命ずる指令があり伝令に走る。国防服に戦闘帽、消防署の伝令を示す赤いタスキと水筒、鉄甲の物々しい姿で飛び出した。

 長崎駅(南二.四辧砲筝庁(外浦町・約三.三辧砲離鼻璽狆の屋根は青銅で覆われ、爆発時の強力な熱線によって灼熱し、内部の梁や板材を焦がし、下からの風に煽られて出火した模様です。下にいた職員達は火の粉が落ちてきて初めて天井が燃えているのに 気が付き大騒ぎになったようです。高い屋根からの火の粉は周囲に飛び散り、忽ち付近一帯を火の海と化し更に延焼する。下築後町の福済寺の五重の塔(南東二.六辧砲らの出火も同様で、これらを火元とした火災で夕方迄に、旧市内の三分の一以上が焼け野原となり、 消防署も危うく焼ける所でしたが、全署員の必死の頑張りと夕凪に助けられ、一軒隣で類焼を免れ無事でした。
 近所にあった九州製菓の建物にも火が移り、貴重な砂糖、乾パン、米、メリケン粉等の食品を運び出す作業も、学徒伝令の仲間が中心になって行いました。

 十一時半頃から午後五時頃までの消火活動は、消火というより猛烈な火勢をいかに和らげ、如何に時間を引き延ばすかの戦いでした。消防車の移動も、撤退に継ぐ撤退で、加えて川や水道の水量不足から水圧が上がらず、放水も思うようにならず、最後は類焼直前の家屋を、 人為的に倒壊させねばならないこともありました。そこへ夕凪がきて風が治まり、さしもの火勢も衰えました。まだあちこちに、残り火はあっても火勢はありません。黒い雨が降ったことは気付かずにいましたが、七時頃握り飯の配給を受け、外に積んであった廃材の 木材に腰掛けようとして、気が付きました。
 木材が濡れていて、しかもコールタールのようにベト付きました。署内に入ると「浦上が全滅だ!」という話で、騒然としていました。

    紫斑は死の兆候

  学生寮に帰ったのは夜十時頃です。疲れた身体を横たえ、今日の体験を皆で語り合っているとき、寮生の一人が、浦上の工場にいた瀕死の兄を捜して助けだし、山越えして連れてきました。舎監の市橋先生(学校で被爆、爆死)は不在、主だった者で相談して、舎監室の隣の 物置を片付け、布団を敷き介抱することにしました。
 全身火傷のその人は、話すことも出来ず、一晩中うめき通し、その声に寮生三十名眠ることも出来ず、ただ見守るだけでした。明け方、うめき声も細り、口の周りが腫れあがって紫色になり、呼吸困難からついに息絶えました。
 もっともっと生きていたかった事だろうとその不幸に涙する寮生達でした。
 翌十日、寝不足の身体を引きずるようにして消防署へ。前日の奮闘疲れと、さしあたって緊急事態も無いことから、署には多少のんびりした雰囲気がありました。
 十時過ぎ、意外にも、故郷にいるはずの父がヒョッコリ寮生達に案内され、自転車で訪ねてきたのには驚きました。

    父も被爆者!

  父は昨九日、職務で長浦村(現長崎市琴海町)から長崎県庁に出張の途中、大村湾の船上で原爆の閃光を浴び、原子雲が立ち昇るのを見て、異変を感じ、急遽、船を長浦港へ戻し、村役場で事態を確かめようとした。爆心地から北二十厖召猟恒座爾盡暁の爆風によりガラス窓や 建物等に被害があり、村人達も状況把握に役場に集まり騒然としていた。電話も長崎には通ぜず状況把握も出来ないまま時を過ごし夕方を迎えた。
 被爆者がぞくぞくと運び込まれてきて、長崎が全部破滅したと思った父は、十日未明、おにぎり、梅干し、漬物等を自転車に積めるだけ積んでやってきたと言う。避難する人々の中に息子らしき姿がないかと気にしながら…。

 爆心地の北六勸未瞭擦糧付近からは、入市を阻止する警防団の人々に「息子の遺骨を探す」と断りながら自転車を走らせ、原子野の浦上を北から南へと突っきり、寺町の興福寺の 学校寮を訪ね、食べ物を寮生に配り消防署へきたのでした。顔を合わせるなり「お前の骨を拾いにきたら、生きとって良かったバイ」と目に一杯涙を浮かべて喜んでくれました。この時、私は未だ浦上の惨状がどんなものか知りませんので、何故、父がこんなに喜んでくれるのか不思議にさえ思ったものでした。
 暫く話し合って、私の身体に全く心配ない事を確かめた父は、力一杯ペダルを踏んで帰って行きました。帰りの道は要塞地帯の兵士達によって、幹線道路一本だけですが、障害物が除去され走り易かったようです。