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長崎の声

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松隈博子さん 直接被爆・距離3km(新大工)
被爆時9歳 / 福岡県糸島市7632

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 満20才、国民学校の教師で学校田の草取り中に被爆した姉は、報せて下さった同僚の方 の話では被爆時は大した事も無く他の人の面倒をみていたとの事だった。しかし、八日後、 父のお棺の傍らで見た姉は全身火ぶくれで、膿に覆われていた。いつ頃からか「ハッコー」 と云う薬を使った。ただの水のように見えるこの薬は永く置くと錆色になる鉄剤だった。 これで膿を洗い落とし、これで湿布をし、飲み薬としても用いた。姉の生きようとする気 力は大変なものだった。

 父が死に「早く治って私が働かなければ」「アメリカの新型爆弾なんかに負けて死ぬのは くやしい。きっとよくなって元気になってやる」と言い続けた。そして、回復するための 食欲も有った。流動食ばかりで、不自由な姉の口元へ運ぶサジを家族が躊躇すると、反対 にハッパをかけられた。姉が「くやしい」と力む度に肉がくされ落ちて浮き出た血管が破 れ、血が流れ出た。
 こんな状態が一週間程続き、姉は少しずつよくなるように思えたがうわ 言を言うようになった。話しかけると返事はしてくれた。今迄出会った人達一人ひとりに お礼とおわびをのべた。時には「ああ、お父様がいらっしゃる。私は泳いで行くから大丈 夫」との言葉も有った。この時家族は「三途の川とやらを泳ぐつもりかもしれない」と話 し合い、返事があるまで姉の名を呼び続けた。姉は不自由な口で二日二晩休むことなくしゃ べり続けた。その間、家族は姉の枕元にくぎづけだった。夜遅くなって、私は母から少し休 むように言われて横になったが、朝まで眠ってしまった。

 朝起きてみると、姉は新しい浴衣を着て、生まれて初めてのお化粧をしてもらっていた。薬の利き目で、顔にだけは皮ふらしきものが出来たらしい。前夜、姉は鉄道唱歌を歌い乍ら息を引きとったそうである。出合った人達に挨拶を済ませた姉の顔はおだやかだった。姉の事を伝えて下さった先生も、一ヵ月後には亡くなられていたそうだ。

  日本には、戦争放棄を謳った、世界に誇れる憲法がある。絶対に戦争出来る国にしては ならない。
(2005年)

  父と姉が亡くなって母と女学生二人、中学生一人、国民学校生二人の六人家族となった。21年7月、社宅を出て、両親の郷里福岡へ転居。家族全員アルバイトの生活が始まった。 二人の姉は、夜間の洋裁学校を出て会社員、私は高校を出て会社員、兄と弟は、大学へ進み、教員となった。
 その間上の姉と兄は肺結核、下の姉は子宮筋腫で手術を受けた。母は心臓と腎臓に持病をかかえながら働いていたが68歳で死去、上の姉は子宮癌から全身に転移して63歳で死去、下の姉は肺癌から全身に転移、68歳で死去、弟は胃癌から転移、71歳で死去、兄は大腸癌の手術を受け転移はしていないようだが肺気腫で、酸素吸入ボンベから離れられない。私は、子宮いけいせいで、あと一段階進むと癌と云われ、定期的に診察を受けている。
 癌は、その体質が遺伝するといわれるらしいが、我が家系に被爆以前に癌患者は居ない。 母や姉の口ぐせは、母が「私は棺桶に片足入れたから何でも出来る」、姉が「ここに居るのはあの時死んだ筈の自分」(軍需工場で隣に居た学友は即死)「生きてる限り元気よ」だった。
(2010年追記)