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長崎の声

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安本政代さん 直接被爆・距離4.2km(本河内)
被爆時20歳 / 鹿児島県徳之島町8251

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 八月九日一発の原子爆弾が長崎を灰の海にしてしまいました。父は仕事に出たきり帰って 来ません。母は私が六年生の時亡くなり義母と妹と4人暮でした。妹も無事帰ってきまし た。私は二十才で三菱兵器製作所検査工として働いていました。機械場の一部が本河内町 の日見トンネルに疎開となり、そこに検査工として勤めていたので命びろいしました。本社 にいたら今の私はいないと思います。父が帰らぬので水筒を肩にかけタオルを首にさげ長 崎駅前までは行きましたが浦上方面にはとても若い私には足がふるえ生きた気持ちもなく 家に引きかえしました。

 3日たって火がおさまり又水筒にタオルをぬらし口にあてて、父の 工場あと松山町、一番中心地です。たどりついて見たらただ茫然と立つばかり。機械と思われ るそばに手足も体もなくただ頭の黒こげみたいのがごろごろころがっていて、父ともわからずそ の場を立ちさりました。浦上川の岸辺には人の山、道ばたにもあっちこっちにたおれ、いきたえ た人、又は気でもくるったように子供の名前をよんでる母親、忘れようとしても忘れられ ない私です。

  57年目に鹿児島県大表で慰霊祭にえらばれ父の名前がのってない事がわか り、57年間浦上川の空をさまよっていたのか思えば涙が出てとまりません。妹も51才で 亡くなり姉妹お叔父をたよって徳之島に来ての現在です。長崎は私の故郷で今年60周年 を最後に慰霊祭に出席してナガサキに友達や自分がすんでいた町にさようならをしてこよ うと思ってます。なにしろ81才ですので案じられますけど娘といっしょに行くつもりで す。まだまだ書きたいのは山々ですがこれにて失礼致します。よみにくいでしょうが一生 けんめい心のこもった言葉と思って下さい。
(2005年)

  アメリカ・オバマ大統領の発言で核廃絶の気運が一度にたかまり全世界が注目される所となりました。私の被爆体験が全世界に公開され一日も早く此の世から核兵器がなくなる事をつよくこのんでおります。

  八月九日十一時二分一発の原子爆弾が長崎を一瞬にして火の海、灰となりました。父は仕事に出たきり帰って来ません 母は私が六年生の時亡くなりました。
 義母と妹と四人暮でした。妹も無事帰って来ました。私は茂里町兵器製作所検査工として働いていました。戦争がだんだんはげしくなり、機械場の一部が 本河内町日見トンネルに疎開となり、そこで検査工として勤めていたので、つよい爆風をうけ命びろいしました。本社にいたら今の私はいないと思います。
 父が帰らぬのでよく日、水筒を肩にかけタオルを首にさげて長崎駅前まで行きましたが、浦上方面にはとても若い私は足がふるえ度胸もなく家に引きかえりまし た。三日たって火がおさまり、又水筒を肩にかけタオルを首にさげ駅前から浦上方面へ行くにはタオルをぬらし口にあて人の足や手などふみつけアット 気づき、ごめんなさいと心でとなえ先へすすむと、浦上川の岸辺には息たえた人がかさなりあって、川の半分は死体の山、又気でもくるったように子供の名前 をよんでる母親、人の死体見ながらやっと父の工場あとと思われる松山町。一番中心地ですので機械と思われるふきんに手も足も体もないただ頭と思われる 黒こげのまるいものがゴロゴロころがっているのを見た。私は茫然と立って涙さえでませんでした。父とも確認できずその場をさりました。後でわかったのは 工場長だけがその日会合で市役所に行きたすかり工員全滅とわかりました。

  それから私は茂里町本社に一週間おうえんにかよい、けが人がずらりねかされ、 ホータイをまき目ばかりぐるぐるしている人が仕上工の組長森さんときかされびっくりしました。又ムシロにねかされた男性がネェーチャン水…水とかのなくような声でよんでいるので水をのませようとしたら、係の人が水をやったら死ぬのだよと言われ、あとがみをひかれる思いでその場をたちさりました。よく日来たらムシロがかぶされていました。たすからないのなら水をのませときたかったと今でも私の脳裏からはなれません。
 いちじたすかった人も頭の毛がぬけ体にはんてんができると次ぎつぎ亡くなってゆきました。又死体も半ずぼんや半そでの人は手足がふくれあがって見るも無残な姿でした。 又やけどやきず口のある人はうじ虫がわきくすりもなく、ただ、ピンセットで虫をとりのぞきてんかふんをつけてやるのがせいいっぱいです。

  八月十五日終戦となり戦争はおわりました。
 私が20才妹が15才、父母が徳之島出身で長崎には親戚もだれひとりいないので、まよいにまよって徳之島に引揚げる事にきめ、昭和21年3月でした。鹿児島の収容所にこめられ生きた気持はしませんでした。ほかの人は徴用や挺身隊で島に帰る人親兄弟がいるわが家に帰るのでうれしいでしょうよ。でも私姉妹は叔父たよって知らない所へ行くのですから、いきた気持はしませんでした。たどりついた所は大島郡徳之島町畦と言う所で、こすう12軒小さい集落でした。そこで主人といっしょになり、でもそのとうじは奄美大島は日本からきりはなされ復帰したのが昭和28年12月25日でした。ないお金をあつめて私と妹は 子供をおんぶして義母の家に行き友達や思い出の場所をたずねて帰りました。私が43年乳がんで左を切りとった時義母からきき被爆手帳がある事を知り、 昭和52年11月25日に手帳をもらい57年目に鹿児島県大表で慰霊祭にえらばれて娘といっしょに行く事にしました。ところが父の名前が奉安箱にのって ない事を知らされた時は残念でたまりませんでした。どうして今まで、父は爆心地の浦上川の空をさまよって57年、娘としてごめんなさいと涙がこぼ れました。でも私が生きてる間にかなえられ父はどんなに喜んでくれた事でしょう。

  57年目の慰霊祭に娘と出席した時、鳩がとばされた瞬間、一羽の鳩が元気 よくてんとの中へとび込んで来たのは見たけどほかの鳩は空高くとびさって行きました。所がとなりの人が私の肩をたたいて足もとにはとがいるとおしえられ、 足もとを見たけどなにも見えないので左にすわっている娘にきくと、母の足もとをいったりきたりしていたときかされ私は身のけがたちさむさをかんじ、そして 父が私にありがとうと知らせてくれたと心からかんじました。皆様はしんじないと思いますがこの世に霊とゆうのがあるのだねと思いました。
 父の遺品は長崎原爆資料館へ写真は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に原爆被爆者の遺言集をそえてあずかってもらってます。これが最後と言って12回行ってます。昨年 64年を最後に娘と出席、父の写真をもって時間前におせんこうあげお祈りしてふりかえったとたん、マイクをさしのべられインタビユウをうけ次ぎからつぎ 3人の人にきかれました。とわれるままに返事をして席につき式典がはじまりました。最後の祈をしてかえりました。今年は65周年だけど85才の私 体ちょうがわるく行く事はできないと思います。いまの私は全世界から核兵器をなくし、にどとこのようなひさんさを子や孫にあわせたくないためにも全力を つくしてもらって核のないよう祈ります。

追伸
 思うままに書きましたけど文からくみとって下さい。お願いします。
 父の会社の工場長は滝川三郎様です。
 私の会社の疎開した日見トンネルは4.2k、本社茂里町は2kとちょっとと思います。
(2010年追記)