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長崎の声

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男性 直接被爆・距離2.5km(新戸)
被爆時15歳 / 熊本県菊陽町3191

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 生涯忘れることできないが思い出したくもない。昭和19年の後半からは空母からグラマンが飛び立ち機銃掃射、小型爆弾投下もあり烈しさ増し我々学生を指導され責任者の方が一緒に地面に伏せていたが、機銃掃射により死亡された。敵機来るならいつでも来いと血気に逸り立、15才にして死覚はできていた。言論に自由はなく憲兵、特高警の目光る時代。昭20年3、4月から空襲が多くなって思った作業できない。5月だったと思う。敵機からビラがまかれた。内容は、日本良い国神(紙)の国 7、8月には灰になる、であった。強制回収され焼却されたと聞く。チラシは見た。

 8月9日警戒サイレン鳴終らいうち空襲サイレン、すでに敵機頭上高度もありB29が小さく見え5、6千mあったと思う。
 上陸用舟艇の甲板上で友2人で仕事したがB29の行方を見て北九の方かな話しているとB29から黒いものが落された。
 パラシュートがついて急落下でないので2人で見ていたら2、3分であろうかものすごい光熱目が瞬間見えなくなりその場に伏せる。目を開れば一面真暗ら慌てて舟艇から地面とびおりる。耳をつんざく爆音人を吹きとばす爆風柱にしがみつく。爆風去って防空壕に走り込んだがすでに遅しである。まるで空間夜である。引揚げの指示があり宿舎に引揚げることになる。

 宿舎は工場2粁先の山手にあったが、学生6000徴用工4000と言われていた簡素な二階建ての寮。寮に帰って見ればとても居住できる状態でなく自分の荷物のみを、瓦礫と化した宿舎を去り山手の防空壕へ引越し穴での生活となる。日頃の食事も不充分で話にならず食べものなしの日もあった。13日三菱より作業続行不可能で引揚げることになり、13日当地出立、山伝いに歩いて市内にでる。何処まで歩くのか全く解らない。汽車が来る所までだろう。

 長崎市蛍茶屋―浜町―大波止―長崎駅―浦上―道ノ尾まで歩き汽車発車出来たのである。大波止から黒焦げ死体を投下から4日というのに、何千体からなり死体と死臭・幼児を抱いたままの黒焦げ死体。長崎駅鉄道レール飴形のように曲りくねり天く仰いで突立っている。三菱製鋼長崎工場の鉄骨が瓦礫の山と化し焼死も相当な数で至る所で山積みにして人焼却されていた。中心地浦上へ進み、火傷した人が水を求めて川にきて息絶えた死体が両岸に多くみられ全体が地獄の恐怖である。
 やっと汽車に乗り込んだ。火傷の人が多く大変であった。

 被爆の不幸は何十年も引きずります。正しい戦争なんてありません。主義主張はありますが、それを通すために人を殺すと言うのは人間ではない。核の恐怖を知った我々被爆者は、悲惨な災害、驚愕、惨禍、残酷さを、次世代を担う方々に語り継いで行かなければならないと思う。
(2010年)