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長崎の声

青山照弘さん 直接被爆・距離2.5km(平戸小屋)
被爆時15歳 / 長崎県長崎市8579

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 被爆体験について
 被爆当時、私は、長崎市平戸小屋町一二二番地(現、丸尾町六ー十四)の三菱電機長崎製作所に勤務し、軍艦等に使用する電動機の製作に従事していました。当時十六歳でした。
 八月九日十一時過ぎ、突然目の前に閃光が走りすごい音がしたので、近くに爆弾が落ちたと思って直ちに地上に伏せ、音が静まるのをまって顔を上げてみると、周囲は粉塵でか、まだ薄暗くて見通しができない状態でした。その状態がおさまってから全員防空壕に避難しましたが、壕の中には多くの負傷者がでていました。私は幸に屋根からの落下物で頭を少し切った程度で助かりました。

 私は当時、会社の防衛組織の特火隊に属していたので、その日は家には帰らないで会社に泊まり、翌日、浪の平町の自宅に稲佐橋、長崎駅経由で歩いて帰りましたが、途中はずっと焼け野原であちこちに人や馬等の死体が横たわり、まるで生き地獄でした。戦時中の事で、あまり怖さも感じないまま家までたどり着きました。ずっと焼け野原だったので自分の家も無いのではと心配していましたが、幸に自宅は残っていました。しかし、家族の姿はありませんでした。行き先表が置いてあって、家族は大浦にある墓に避難していましたので、無事に家族に会う事ができて一安心しました。
 その夜(八月十日)から二、三日は墓の中で生活しました。

  被爆の二、三日後、三菱電機長崎製作所長のお供をして、浦上方面(松山、城山、西町)にある従業員のお宅を慰問にまわりましたが、どこも焼け野原で誰とも会う事は出来ませんでした。唯一一人、西町の射的場付近で仮住いの同級生と会った事が記憶にあります。途中もあちこちに遺体が見受けられ、特に浦上川のほとり、鎮西学院(現、活水高校)には、もう膨らみはじめた遺体が沢山積み重ねてありました。
 この様な状態は六十四年たった今でも、記憶に強く残っています。
 幸に、一週間後の八月十五日に終戦となり、すぐ復興に着手されましたが、もし戦争がこのまま続いていたらどうなっていたのか、恐らく今の自分は無かったと思います。
 もう戦争は嫌です。
(2010年)