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長崎の声

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北尾ミツヨさん 直接被爆・距離3km(本博多町)
被爆時17歳 / 奈良県奈良市7261

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 (1)被爆した次の日被爆して焼野が原を南より北へ中心地を歩いて通って外海町の実家 に帰ったが、ムシロにくるまった人に水をくれと足をつかまれた。
 死体が重なってかなりの人が死亡していた。
 山手の方で親、子の名を呼びながら通り過ぎる声。
 全身火傷で苦しんでた人の声、一生忘れられないと思います。
 (2)お互いに苦しい時代でした。安らかにお眠り下さい。1日も早く此の世から、原爆が なくなる様にお守り下さい。
 (3)、まだまだ原爆の怖さをわかっていない若者が多いと思います。私達の運動がたりな いのでしょうか。
(2005年)

  昭和二十年看護学校を卒業し十七才で長崎市内の病院に勤務していた。
 空襲警報が解除になり、長崎県外海町の実家へ帰る為、船の切符を買いに行く途中だった。 民家から七輪を抱えた女性が出てきて…爆音が聞こえませんか?…の声に空を見上げた瞬間、強烈な光が目に差し込んだ、反射的に道路脇の側溝に飛び込むと爆音が聞こえた。身をかがめ防空頭巾で頭を覆い目をつむった。

  …私はここで死ぬんだ…と心の中で覚悟を決めた。
 しばらくして、私は無事であることを知り恐る恐る側溝から顔を出した。黒煙の中に、 うっすらながら瓦礫の山が見えた。夢中で病院へ駆け戻ったが〔七輪を抱えたあの女性の姿を見ることはなかった〕
 あの日病院に戻り次々と運ばれてくる火傷を負った人や、頭に深い傷で血まみれの人に消毒液を塗った。夕暮れ時、道の両側はまだトロトロと燃え残る火、逃げようとした体勢のまま重なり合い息絶えた人、行方不明の家族の名前を呼び合う悲痛な声は私の耳朶から終生消えることはありますまい。
 約四十キロメートルの夜道をやっと辿りついたのは夜更だった。
 翌日は厳しくも優しかった戦死した兄の村葬が行なわれたが、私共遺族の胸中とは裏腹に、夏の陽射しの明るい日であった。

  【長崎が最後の被爆地である】事を願うと共に多くの犠牲者の霊に哀悼の意を捧げペンを止めます。
(2010年追記)