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長崎の声

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木戸善一さん 直接被爆・距離3.2km(飽の浦)
被爆時17歳 / 福岡県柏屋町5734

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は平成6年から現在まで、伝えたい平和への願い「被爆長崎の体験」のテーマで毎年郡 内の小、中学生に話しています。時には、老人会、宗教団体等にも話しており、昨年で今迄に 話した延人員は約8千人になるかと思います。又、私は平和のシンボルとして「長崎山王神 社の被爆くすの木」の苗木を長崎の知人より送って頂き、今迄に郡内の小学校9校に植樹 しました。このことは地元の新聞、又、NHK福岡放送局から度々放送されました。今 後も命のある限り私の被爆体験を伝えていきたいと思っております。
(数字は2010年に修正)

 1.死体の状況(悲惨・残酷・哀れ)
 2.人生のはかなさ。かわいそうでたまらない
 3.核戦争絶対にすべきではない。被爆体験を“風化”させてはならない。
 語り継ぎたい平和への願い「被爆長崎の体験記」の手記を同封致します。この手記を主体に私は話しています。又、長崎の地図、NHK,民放の原爆に関するビデオも上映し、解りやすく話しています。講和時間役1時間、ビデオ上映時間は約30分。
(2010年追記)
広報かすや平成9年8月号より

 
  戦後52年。「もう昔のことやない」と言わないでほしい。今でも、当時のことを思い出し涙ぐむ人がたくさんいます。当時の人たちの苦労されたことを今の若い人たちにも知ってもらいたい。
 猊化瓩気擦討呂覆蕕覆い里任后 被爆長崎の体験記〜被爆50周年に寄せて〜
 平成七年八月九日、私は五十年振りに、空襲の度に命からがら逃げこんだ、あの被爆片足鳥居で有名になった山王神社に参拝した。境内にある二本の楠木は昔と変わらず元気でたくましく活き返ってはいたが、熱線のためか幹の片側にはまだ少し焼痕が残っていた。

 想えば今からちょうど五十年前の昭和二十年八月九日午前十一時二分。私は三菱重工長崎造船所内(爆心地より三・二辧砲波鑁しましたが当時はまだ十七歳の学生でした。
 被爆前に私はまず油脂焼夷弾に夜半攻撃された。その焼夷弾は遠く、稲佐山方面にユラユラと油脂が燃えながら無数に落下していくのを見たが、何時自分たちの家にも落下してくるかと思った。私にとっては最初の空爆体験だっただけに、暗い防空壕の中で探照灯や高射砲の炸裂音等で夜通し一睡もできない恐怖の一夜を過ごした。
 次は忘れもしない昭和二十年八月一日の三菱重工長崎造船所の爆弾攻撃である。その当時、当造船所内では特殊潜航艇や『マルヨン』の記号で呼ばれ小型木造船の舳先に爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻艇等が私の実習場近くで秘造されていた。敵機の攻撃目標は主にこの秘造所かと思ったが、中には地下防空壕の側にも爆弾が落下し、何十人もの人が生埋めとなり全員が死亡した。その時私が避難した防空壕のすぐ側にも爆弾が落下したが、奇跡的にも私は助かった。敵機を射つ高射砲の音と爆撃機の飛行音や爆弾の炸裂音等が入り交じって、とても生きた心地はしなかった。空襲警報解除後外に出てみると、防空壕入口附近には大きな穴があき、その附近には主に軍人たちのバラバラになった死体が散乱していた。

 八月一日の爆弾攻撃後、次の降伏宣伝ビラが敵機から散りまかれたと友人より聞かされた。『八月八日長崎に新型爆弾を投下する(私の見たビラには投下日は書かれていなかった)。この爆弾の威力はB29の二,〇〇〇機に搭載した爆弾に匹敵する。もし嘘と思うなら広島を見よ。市民はただちに待避せよ』という内容のビラかと記憶している。しかし八月八日には何事もなかったので、やはりデマの宣伝ビラかと私は思った。

 ところが、爛團・ドン瓠H月九日午前十一時二分(私は偶然にも腕時計を見ていた。午前十一時一分だった)、私はその爛團ッ瓩鮃場の実習場から約一〇〇m前方に判然と見た。稲妻が塊まったような物凄い光と、一瞬熱気を含んだ突風が襲ってきた。『地球に何か異変でも起こったのでは?』と一瞬思った。『伏せろ』と大声で叫んだところまでは覚えていたが、後は意識不明となり爛疋鶚瓩硫擦倭瓦聞こえなかった。
 ……数秒後防空壕に避難する人たちのガラスを足でバリバリと踏み割る音で私の意識は回復した。ああ、また助かった。これで三度目である。
 防空壕の中には二〇〇〜三〇〇人いたかと思うが火傷や打撲、流血者等で防空壕の中は大騒ぎとなった。それから……約六時間後、恐る怖る外に出て見ると長崎港の向岸(長崎駅〜県庁附近)一帯は火の海と化し、黒煙が濛々と空に舞い上がっていた。そして空にはあの茸型の原子雲がぽっかりと浮かんでいた。
 帰宅途中うす暗くなった空から急に雨がパラパラと降ってはきたが、その雨の色が白色か黒色かはよく覚えていない(黒色で放射能を含んだ原子雨と後日聞いてまた怯えた)。

 原爆投下二〜三日後と思うが、私は学友の生存確認調査にまず各市内病院数ヶ所を廻った。院内の待合室や廊下は、どこの病院でも病人と死体で思うように歩けなかった。その中に死にかかっていた学友一人が見つかった。彼の強い願いにより「道の尾」の自宅まで担架にのせて運ぶことになった。午後八時頃三菱長崎病院を出発したが、途中道に迷い月の明かりをたよりに長崎本線の線路づたいに歩いたが、彼の自宅に着いたのは翌朝の午前四時頃だった。途中石塊や死体につまづき何回か転びそうになった。その後彼の生死は不明のままである。
 病人の中には無傷の人もいたが、頭髪が抜け、下痢症になった人は殆ど翌日には死亡していた。その原因が放射能であることが後日判明し、無傷で元気な被爆者でも明日には我身かと毎日戦々恐々としていた。
 病院の調査は途中で中止し、次は爆心地附近で死亡した学友の死体処理であった。原爆投下約一週間後と思うが、稲佐橋で雨と稲妻と雷にあい、またもや爛團・ドン瓩と思い水溜りの路上に伏した(その後この稲妻恐怖症は五年間は続いたように思う)。ずぶ濡れになった洋服のまま私は稲佐橋を渡り、三菱重工長崎造船所幸町工場附近に来た時、偶然にも学友の山下君の死体に遭遇しびっくりした。死体は無傷で死因は不明であった。人名確認のため再度名札を見たところ、胸元からロザリオが見えた。彼は無口でいつも寂しそうな顔をして教室の隅に座っていて友人も殆どいなかったが、何故か私とは親しかった。友人山下君の死体はそのままにして、私は次の目的地に急いだが、何故か涙も出ず、また悲しみも込み上がってこなかった自分が不思議でならなかった。

 一面瓦礫の原と化した爆心地附近一帯には黒焦げの死骸がいたる所に転がり、また丸焼けのため人名は解らず、私たち学友十五人は約一週間で三〇〇余人の死体を火葬した。その中に学徒動員女学生のあまり火傷していない死体が二十二体あった(その死体はこの場所で被爆したのではなく、おそらく別の所で被爆し帰宅途中力つき死亡したものと思う)。その死体の中からやっとのことで我が子を探し出した一人の母親がいた。もうその死体には蛆がたかり腐ってはいたが、いつまでもその死体を抱きしめ我が子の名前を泣き叫び続けていた母親の姿を今でも時々思い出す。夕暮の一面の焼野原は死体だらけで道もよく解らない。そしてあちこちにはまだ火が燻っていた。その中を焼かれ破れたボロボロの衣服をまとい、それも素足で我が子の名を叫び続けて探し求めていた半狂乱の母親に何人か出会った。左側にはグラマン戦闘機の機銃掃射をうけ、命からがら逃げこんだ山王神社の鳥居が片足で立っていた。また浦上川や防火用水槽には水を求めてか、多くの人たちが重なりあって死んでいた。

 終戦後間もなくして、米艦が早々と長崎港に入港してきた。夜になると艦上の電灯はこうこうと光り輝き、まるで昼間のような明るさだった。またスピーカーからは音楽が流れ、戦勝を祝ってか大勢の水兵たちが夜通し踊りまくっていた。その光景をまのあたりに見た私は、『平和』とはこのような光景かとふと思った。戦争に負けたことは非常に悔しかったが、灯火管制やローソク送電で毎晩の暗さと食糧難や空襲の恐怖にさらされる日々がもう限界にきていた。長崎港の埠頭で一夜明かした私は、まずこれからの焼土と化した長崎、そして七十年間も生物が生息できないと聞かされた原爆地長崎、いやこれから先の我が人生をどうするべきか等々色々と考えた。夢も希望をも失くした私は、姉の住む北九州の地で人生最初からやり直すべく決意し、被爆半年後故郷長崎を去った(後日、この北九州の地が原爆投下の第一目標地と聞かされ、またもやびっくりした)。

 以上五十年前のことを色々と想い出しながら、火葬場周辺を見て廻っているうちに私はいつしか小公園に来ていた。その片隅に『原爆戦災犠牲者之供養塔』が建立されていた。塔の周辺は提燈や花、ご供物等で飾られローソクや線香が灯されていた。被爆した学友や学徒動員女学生の死を想い浮かべながら私は一心に慰霊した。そのとたん急に私の心は晴れやかになり五十年間の苦痛がスウーと消え去った。
 私はこの場所から浦上駅を経て稲佐橋まで歩き浦上川を埋めつくした死体の山を想い出し橋の上から合掌した後、すぐ近くの渕神社に参拝した。長崎に生まれた私は渕神社のすぐ真上にある稲佐山(三三三m)に登ったことは一度もなかった。稲佐山から初めて見る故郷港町福田本町はよく見えた。
 左側に目を移すと私の被爆地三菱重工長崎造船所が手にとるようによく見えた。長崎駅から浦上方面の復興ぶりには大変驚き、又大変嬉しかった。

 被爆から今年で五十年、故郷長崎にはもう被爆の跡形は殆どなく、よくここまで復興したが、一方被爆者の我々にとっては、毎日が原爆病との闘いである。平和になると人命も尊重されるが、戦争時の人命は実に悲惨であり、残酷であり、又哀れである。そして戦争は人間性まで変えてしまう。又人間の幸運と不幸は紙一重であり生死をも左右する。恐ろしいことである。今後はいかなる理由があるにせよ、戦争は絶対にすべきではない。まして核戦争もってのほかである。

 後残された我が第二の人生は常に勇気をもって忍耐強く、前向きに挑戦することを座右の銘として原爆死した人の分まで長生し、人の為、世の為、そして世界平和の為に尽くすことが被爆者としての義務であり、これからも一層頑張らねばと思い故郷長崎を後にした。
(2010年送付)