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長崎の声

男性 直接被爆・距離2.8km(蛍茶屋)
被爆時14歳 12314

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 強く印象に残っている事を記入します。
 (1)被爆直後、長崎中学の裏山に退避の途中に目の当たりにしたキノコ雲の凄さ、きれいさ。……
 (2)翌日爆心地を通り(兄を見送って)電車と人の残がい等より、偶然踏んだ馬の死体に震え上った事。
 (3)当日は家族全員が別の場所(6人、全員市内)に居たにも拘らず、誰一人欠けなかった運命と偶然性……。
 (4)夏から秋(その年)に体中に出来物が出て、どくだみを(野生)煎じて塗ってくれていた母。
 (5)父の指揮で長崎駅前の電力会社のビルが火災から助かった事など(当時、父は電力会社の長崎支店長)

 (6)当日の行動(8月9日)
(三菱)長崎幸町工場の分工場が、グラマンの空撃を受け(多分8月1日)、被爆の前日から工作機械毎、長崎中学内工場に、勤務→裏山→自宅(新中川町)→午後以前住んでいた。(家具も残っていた)興善町の支店長社宅(丁度火災発生し燃えていた)→九州配電長崎支店に。父の指揮下に入り、防火作業手伝い。

 (7)翌日か翌々日(10日〜11日)
 上の兄が明専(現在の九州工大)に帰る手伝いと荷物持ち。列車が動く処迄(多分浦上の先の方)見送り、始めて長崎駅→銭座→浦上等自転車で通った。
 やけどの人、水を求める人(すれ違う人々)、焼けこがれた電車(はみ出した死体)、多数の真黒な遺体等々。
 最も恐かったのは先に記載した馬の体を石と思って踏み(一服の為)足がぶくぶくと沈んだ事。

 (8)昭和20年の夏から、出来物や発熱等……3年生の後半は、中学に行けなかったと思います。
 4年生からは通学したが、多分1/3〜1/4の学友が欠けたと思う。

 (9)8〜10月頃には、我が家(新中川町)の下の伊良林小学校が火葬場となり、毎時も匂いがきつかった。
 又、爆心地から帰ってまた御近所の人(学生さん等)も殆どの人が亡くなられた。

 もう止めます。
(2010年)