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長崎の声

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男性 直接被爆・距離5km
被爆時4歳 6686

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は昭和16年8月2日生れです。原爆が落ちた時は4歳になったばかりでした。 60年間、その時の事を思い出したり話したりしたく有りませんでしたが、4,5歳に なった孫たちの幼さを見ていると、私が4才の時に経験したこの強烈な記憶を伝えることが、孫たちが戦争が無い幸せを知ることになるのではと、思い切って筆を取りました。

  原爆が投下された時、私達兄弟は一緒に昼寝をしていました。窓ガラスが割れる音で目を 覚ますと真っ暗闇で、何がなんだか分かりませんでした。手探りで兄たちの後について外 へ出ましたが、間もなく黒い雨が降り出し、居場所もありませんでした。
 その頃は、国鉄長与駅のすぐ近くに住んでいました。
 何日かして、包帯や白いガーゼを当てた人達が、貨物列車に乗せられて続々と運ばれてい くのを目にしました。暑いのに、石炭を運ぶ屋根の無い貨車に乗せられていました。行き 先は大村の陸軍病院だそうです。間もなく病院が一杯になったのか、長与駅のホームにま で下ろされるようになりました。次から次に降ろされホームはまたたく間に、怪我人で一杯 になってしまいました。
 包帯の下から真っ赤にただれた皮膚が見え虫が這っています。「水を呉れぇー、水を呉れぇー」といわれたので、持って行って飲まれるとグッタリとされてしまいます。 母から叱られました。火傷に水はいけないと教わりましたが、かわいそうでなりません。 間もなく近くの保線区の小さな広場で、線路から抜かれた枕木が井げたに組まれました。 黒い煙がまっすぐに天に昇っていきます。亡くなった人を燃していたのです…
 翌年の初夏、畑にスイカと瓜がなりました。とても大きなスイカでした。今から思うと原爆 の影響でしょうか。明日楽しみに寝て、翌朝畑へ行ってみるとスイカはどこにも有りませ んでした。
 二度と戦争や核兵器の使用は嫌です!
(2005年)