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長崎の声

男性 直接被爆・距離3km(大村市)
10047

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私の被爆体験について
 昭和19年鹿児島の旧制七高から学徒動員で長崎の三菱兵器製作所へ動員され、浦上の寮 生活で、工場へ動員され通っていたが、8月9日、トラック運輸課につとめていた。 当日、10号車と6号車が明いており、東京から来ていた同級生の二宮君をパン工場へパ ンをとりにゆく10号車に乗せ、私は魚雷を大村湾へ運ぶ6号車に乗った。私が、大村湾に ついて魚雷を降ろしにかかった時、原爆がおち、首のあたりに熱い光りをあびた。直に防 空壕へ逃げた。2〜3分後出ると、長崎からきのこ雲が上っていた。

 市内から郊外へ向けて傷を負った人々が逃げて来た。人々は「市内へ行くな。血の海だ から」と云われたが、けが人を助けようと市内へ行った。大勢のけが人を長崎の医大へト ラックで運ぶ。
 不眠不休でやったので、1週間たった8月14日疲れ果て熊本の自宅へ向って汽車に乗り 長崎を立った。
 8月15日正午、熊本の自宅についたとき、敗戦を知った。母は私はすでに死んでいた と思っていたらしく、喜んで私を迎えてくれた。

 私もやがて80才になるが、一生を顧みると被爆体験が一番大きな思い出である。今後と も一日一日を大事に生きていきたいとねがっている。被爆当日同級生で、10号車に乗った 二宮君を探したが被爆中心部にいたので、死亡して見つからなかった。顧みると人の生死は 紙一重と思う。
(2005年)