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長崎の声

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栗崎晃一さん 直接被爆・距離3.4km(飽の浦)
被爆時15歳 / 東京都西東京市11191

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 今、中、韓国が日本に対する憤りが有りますが、直接被害受けたのは国民です。
 米国も原爆被害者には、国の責任を回避致して居ります。
 もっと広島、長崎の被害を、心を世界に知らしめて下さい。
 父の遺骨を求め、新型爆弾と聞いて中心地に行く迄の悲惨さ。真ッ黒に焼けた遺体とふく れあがった死体。残忍な状況は想い出にも恐ろしく残ります。
 焦土と化した長崎市内も、特に浦上中心地点の姿。忘れられません!
(2005年)

 昭和20年8月9日午前11時2分・歴史的かつ悲惨な原爆が長崎上空にて炸裂した。当時私は市立商業学校「旧制中学」の二年生。報国隊として長崎三菱造船所経理課に通勤していた。父母、弟妹四人、金屋町の自宅より町はずれの、上小島の離れを借りて住んで居た。乳飲み子を抱え耐乏と連日の空襲警報の忍耐の毎日でした。父は被爆中心地に有る、J銀行の松山町支店長であの朝二人共職場へと向かいました!これが父との別れに成るとは、思いも因らぬ事でした…。広島に次ぎ一発の爆弾にて卑劣な行為にて、罪も無い民間人を虐殺した事は許されぬ物が有ります、戦争とは言え決して忘れては成らない事実です…。

 別紙は20年前に子供達にと思いきろくしてた物です、付記して置きます。私も将来の日本が平和な国に成って欲しいです。世界の人々に戦争の空しさを訴えて下さい!
 三月二十九日

 原爆の話

 昭和20年8月9日午前11時2分晴天の長崎市で炸裂された。広島に続き2回目の新型爆弾の投下で原子爆弾とは後日知ったが、貴重な経験だ。その為如何に人生が変化したか記録として後日の為に戦争の空しさと恐ろしさを考えて行かなければ成らないのである。二度と繰り返す事は出来ない。

 当時金屋町から小島町へ父の希望で疎開移転した。古い木造の一軒屋で少し高台で狭く三部屋あったが父の友人の好意で寝るだけでも、中心地より無事であろうと居住していた。その日は朝から無風の日、蝉の声と鶏の鳴き声で毎日目が覚めるが蒸し々するので余り安眠できなかった。父は当時十八銀行松山町支店長で、私は三菱造船「飽の浦」迄、何時も二人が出勤する毎日だった。二人共、国防服と足には夏でもゲートルを巻き腕章をはめ、物々しい格好である。母は病弱で妹、愛子が幼子にてその日は父が朝から弁当を作ってくれ麦飯だがおかずは梅干しと沢庵で、アルミ製の蓋が梅干しで酸化し穴の空いた弁当箱である。米は殆ど無い稗米だったがそれでも御馳走である。私が7時に家をでた、毎日が空襲の連続だったので、両親共玄関先迄何時も送って呉れていたがその日は、父が外の道まで出て[アメリカ何ぞに決して殺られちゃいかんばい。]と言われたのが、印象に残っている。

 何時もの通り大波止より船に乗り三菱へ向かった、暑い陽射しが容赦無く照付けるし、でも港を見ると波間が眩しくきら…きら…とひかって鏡の様に美しく感じた。先日の空襲の惨事が夢の様に想い出され慌ただしく人並みに紛れて行った。仕事を始め11時近く職員の川崎さんの用事で三菱病院まで使いに行く事を命じられ、書類を持って事務所を出た。生憎、靴が編み上げで面倒なので、下駄に履き替え歩いて病院へ向かったのである。何の花なのか、赤く輝き陽炎に揺れ世の中にも美しい物があるなあ…と感じた物で久し振りにホッとした瞬間であった。

 その時である、『Bが…Bが…』と怒鳴る声が上から聞こえ見ると電柱に電工さんが2人昇って居て私も空を見上げるとB29が飛び、少し離れて白い落下傘が浮かんでいるのが見えたのである。「あっ!敵機だ」私は小走りに歩みだした…一瞬?突然閃光が走り虹の様な色か?愕然と目が眩み美しいガラス細工が粉々になった様な不思議な感触と、激しい突風と共に跳ね飛ばされた迄を身体に感じたので有る。一瞬の内に地面が揺れ、どどどーんと地響きがあり、何の事か驚愕と一瞬爆弾に殺られたと思い気が遠くなった、ふと気づくと、小さな溝の中か?激しい痛みが足と腰に感じ、顔から血が吹き出ているのか、何も見えず砂ぼこりと1M先も真っ白で息のみが白い鼓動で動いていた。

 何がなにやら解らぬまま生きて居ると感じたが[ああ機銃掃射]かなとおもった。急いで避難しなければと考えたがほこりが、治まるまでその儘、横たわっていた。何分ぐらいたったのか、廻りが観察出来る様に成ってきた。横の煉瓦塀が崩れ私の上にも覆い被さっているし、塀の中の工場がぐにゃぐにゃに成って丸見えだ。あの電柱は影も形も無かった。人影もなく電工さんは何処にいるのか?私は声を出したくなり『おおーい、おぉーい』とさけんだが声がでているのか誰も答える人もなかった。ともかく防空壕を探そうと立ち上がった。下駄もなく裸足のまま歩き出した。瓦礫と砂ほこりに点々と血が滴る状態でシャツはぼろぼろになっている。道路を横切り少し歩くと山ての方に防空壕がみえたが家が潰れて全然無くなりこれは大変だと直感した。横穴に入ると、 [糞っ痛か]と年配の男の人2人と女の人と韓国人らしき4、5名が居たのでホッとしたが、皆ボロボロの姿で肌とシャツの区別も出来ないし顔も泥と血と汗で異様な姿で地獄だとおもった。『おにいちゃん、大丈夫か?』と誰かがいったが、答える力も無く早く事務所へ帰らなければと考えて居たが暗闇に慣れると皆火傷が酷く、私は幸いに火傷は酷く無かったのである。

 腕章の『報国隊』の文字だけが何故か茶色に焦げていた。壕を出て空を見ると浦上の方面に大きな、きのこ雲が覆い被さり、私は裸足の儘事務所に戻ると鉄筋の中は火を吹き皆で消火している、誰もが普通の姿ではなかった。女子商業の柿本さんは包帯も生生しく呻いて居る…福田さんも呆然としている。又蹲り喘ぐ者もいる。警戒警報も解除に成って居たのに何とゆう事かとおもったが『浦上の方は酷かバイ』と誰かが呟いた。父の事が心配に成ったが呆然とせざるを得なかった。福田さんの家は城山だ…彼女の心配そうな顔が印象的であった。「船が出るから報国隊の人は帰りなさい」との事で皆助け合い船付場へとむかった。

 ガラスの破片や鉄屑に石ころの中裸足のまま、歩きやっと船に乗り敵機が来ないかと心配しつつ大波止へと向かった。船も硝子も吹き飛び、窓も大破しやっと動くのが精一杯で市内も火の手が上がり特に浦上方面は濛々と霧が掛かった様に何も見えなかった。大波止に着き足も手も血と泥で真っ黒である。道で縄切れを拾い足に巻き付け自宅へ向かったが、県庁が火の海で江戸町方面へと廻り道した。しかし、そこも民家や商店街が燃え始め防空用水の水を頭から被り火の中を走り出した。

 パチパチ…ドオーンと木材が弾け火の粉が降り懸かって熱く、村上材木店の前はもう火の舞いの様に渦巻き、死んではならぬと必死に走った。髪の毛がチリチリと焼ける匂いがしたがもう誰も人の姿もなかったし誰も助けてはくれないと自分を励ましつつ15才の少年の生命への執念は負ける事も無く浜町の方向へとひたすらに走った。動悸が早鐘の様に鳴っていた…。生きなければとの信念が地獄から極楽へと導かれたのである、貴重な経験であったと何時迄でも忘れる事はなかった。小島の自宅には誰も居なくて多分祖父の家だと愛宕町に向かった市内の方は火の手がどんどん広がり煙りで空が真っ黒に成っている、もう県庁から金屋町の方面も煙りの中になっている。

 祖父母と母弟妹達は防空壕の中にいた、私が帰ると良く帰ったと抱き付かれ私も緊張の連続で、家族と再会出来た喜びを押さえることも出来ず、涙が頬を伝って溢れるばかりであった。もう6時ぐらいに成っていた。浦上方面より人が帰り又は避難して浦上は全滅だとの話しばかりで、噂だと母達には否定するが通る人が男女を問わず火傷や火膨れ等普通の姿では無かったからだ。信じ度なかった。でも皆、水を欲しがり井戸からバケツに水をいれ何度も汲みに行く状態であった。喋る気力も無いのか誰も無口で相当悲惨な目にあったと、感じる以外に、心の中は父は帰ると信じていた。