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長崎の声

女性 直接被爆・距離3km(水ノ浦)
被爆時18歳 / 愛知県11306

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 18才で三菱長崎造船所屋内(事務)で被爆(緑内障・両方、脱水症)、黒い雨もあび、 船欠航のため歩いて帰った(寮)其の時の状況、終戦になり宮崎県日南市に帰って、脱毛、 下り(血便)甲状腺(首廻らない)輸尿管血、せき、腎臓、腸へいそく、お産は死産で紫 色で泣かない。命あったけれど、酸素欠のため今現在、知的障害(A)を頂いて又H17 年2月22日午後1時28分主人亡くなり、ほんとうに此の子のため、たとえ1日でも多 く側にいてやらねばと思うけれど、(78才)の高齢でどうかすることも出来ず、不安で泣 いています。でも私が被爆で体が弱いと云う事は理解してくれ、何かにつけ手伝ってくれ ています。

 私の父は昔幼年学校の教師、飫肥中の配属将校で軍人かちかちの父親、私の病状の時(え きり)だと云って、土間(電灯なし)にむしろを敷いて、1ヶ月以上かくりされた事、母 姑、小姑からも云われ子供を背負って体の両方に漬け物にのせる石をくくり、水の中に入 って自殺したこと。又尾張一宮駅迄歩いて行って自殺しようと思って駅員さんに助けられ たこと。世間の人より(かたわ者)と云われたこと、国の税金で医者に行くと云われたこ と、まだまだあります。原爆投下のあと、火傷の人達より、水、水と云われたそのことば。 これ以上書けません。(地獄絵)そのものです。
(2005年)

 名古屋の裁判で高裁迄行って、国(かんりょう)を相手に戦って来ました(7年間原告)。そして判決は3/11です。(83才)で終結を迎え終りになりました。暫くの間体が大変なので大事な娘(51才)の為1日でも側にいて楽しい思い出を残してやろうと思い、暫くの間体を大切にし、父親の思い出を語り乍ら命のある限り大切にして生きて暮します。又核廃絶の為2世、3世の為頑張り抜いて1日でも早く核がなくなる事を願い、又戦争のない平和を心より手を合わせ願っています。又、一番忘れられない事は実父より(漬物小屋にかくり)された事、被爆故世間の人より差別され、かくれて生活等して今日に至ったこと等です。
(2010年追記)