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長崎の声

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木村透さん 直接被爆・距離3.2km(桜馬場)
被爆時7歳 / 東京都品川区129

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 核廃絶を訴える
 私は7才(数え年)の時、長崎で被爆した。せん光と同時に防空壕に飛び込んで助かったのは父が広島を教えてくれたからだ。そう思っている。

 被爆直後に少し高台にある自宅から瓦礫と化したまちを見て「この爆弾はもう長崎以後は使われないだろう、使ったらこの世は破滅だ」と茫然と立っていた。自分で60年の間、思い出さなかったのは、ほんの数日にすぎない。爆心地の方向は破滅であった。私は父のお蔭で助かったのだ。その父は何と爆心地から500m前後に位置している奉職先の長崎医大(当時)で被爆し、終戦の翌日は帰らぬ人となってしまった。父は私たち兄弟3人(みな防空壕に避難)を枕元に呼んで「人に迷惑をかけるな」と云い残して逝ったのである。その父の火傷を忘れることはない。

 私の家は音速を超えるという爆風で柱と壊れた屋根が残っただけだった。しかし家の周辺は爆心地から3キロ余り離れていたが、爆心地周辺は3000度から4000度の熱線で人も鉄も荼毘し、この世の地獄であった。被爆直後私たち兄弟は山の大きな横穴式防空壕に避難した。まちの火災はひろがっていた。
 私が3才の時既に母を病で亡くしていた。文字通り孤児となった私たちは東京の親戚を頼ることになる。私たちは社会的、精神的、経済的基盤を完全に失った、原爆孤児であった。

 時がすぎて1977年の春、長崎医大病院長で父と大学で運命を共にした先生の夫人を世田谷のお宅にたずねた。夫人は夫を4日間探しまわったという。遺体に群がるうじ虫の音。長崎市内のおびただしい死体。「水をくれ、水をくれ」と叫んでいるひん死の重傷者たちの中を歩きまわった。学生が教授の遺がいを見つけたことを報告する。大学のそばの丘の上で婦人は荼毘に付される夫に「熱いですけど我慢なさって下さいね」とおっしゃったそうだ。夫人は列車で群馬県の実家に帰るまで14日間かかったという。長崎での7万人、広島で14万人以上の即死者を出し、それ以上の生存被爆者を出した。核兵器は正に人類史上最強最悪の兵器であった。

 核廃絶を強く訴える。この21世紀の難題は、原爆を投下した世界最大の軍事大国である米国から核廃絶が発せられるべきでないか。その最初のステップは核不拡散だ。NPT(核不拡散条約)は核保有国を5カ国とする不平等条約ともいえるが、例えば米国が核を持ち、北朝鮮が持ってはいけないというのはずるいとか不平等という考えをもつ人は実に多い。これは核兵器が余りに残酷な大量殺傷兵器であり、不拡散が重要な歯止めになるということが、実感できないからと思われる。核の廃絶は人類(国家)の理性によってしか実行できません。NPTに全ての国が批准すること、そして核不拡散がいかに重要であるかを知らしめ、被爆の実相を伝えることは大切である。国際司法裁判所が核の使用を違法とする世界が早くやってくることを望んでやまない。核の廃絶は被爆者の切実な願いである。
(2005年)