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長崎の声

男性 直接被爆・距離3.2km(伊良林)
被爆時2歳 / 福岡県北九州市12254

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 原爆が落ちた時は私は2才だったのでおぼえていませんが、姉から教えてもらいました。 私と姉が家の中にいた時、原爆が落ち、爆風で家がかたむき私は家の外になげとばされていたそうです。

 兄貴は家の外にいたので直接体に爆風を受け胸が痛いと言っていたそうです。そ の後私は歯ぐきから出血するようになり兄貴は体が痛いと言って病院に入院しました。
 ベッドに背中がふれている所が放射のうのため腐って行く病気で、当時は治す方法がなくドー ナツのような輪っぱを作り、ベッドの上にしいてその上にねていたそうです。でも最後の 方は背中に穴があいて、骨や内臓が見えていたそうですが、姉がいっしょうけんめい看護 して消毒したりしていたそうです。そして一年くらいで兄貴はなくなったそうです。18才 の生がいでした。

 当時は高かなペニシリンと言う注射を(当時1本3000−)もするのを1日何回もしていたそうです。その為、土地、畑を売ってお金を作っていたそうです。それが2〜3年続き家は破産じょうたいになり、皆んなすごく苦労したそうです。そのかいもなく兄はなくなり、残ったのは借金だけ、それから苦労が始まり流れて行き、私は小学校四回、中学校二回転校しました。今は62才になり、やっと根を下ろし何とかやっています。

 今後高年令になって行き原爆体験者が少なくなり忘れられてしまうのではないかと心配 しています。これからも日本被団協、新聞社(朝日新聞)などのお力で末永く伝えていた だきたいと思っております。
(2005年)

 姉から教えてもらった、姉も、かんぞうがんで亡なり、義理兄(姉さんのだんな)もがんでなくなり、自分は五男だけど兄の三男、四男もがんになり、四男は完治し三男は治りょう中。がんにかかってないのは、母と自分だけです。原爆とがんとのかんけいは深いと思います。(手記に書いているのは次男です。長男は東京に行っていたので原爆に会わなかった。)
(2010年追記)